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地獄のオルフェウス

地獄のオルフェウス2021,4

テネシィ・ウィリアムズ研究会テキスト
  地獄のオルフェウス

若きテネシィの 人種差別への挑戦を探る集い

 テネシィ・ウィリアムズに見る
 人種差別への闘いの想い‼
 アメリカの悲劇、喜劇の検証


長田光展中央大学名誉教授
  ウィリアムズのエッセンス――『地獄のオルフェウス』

 ウィリアムズ作品には作者が深く執心して幾度か書き直される作品がいくつかあります。本作もそれで、1957年を初演としながら、実は、その17年前、2週間で上演禁止処分となった『天使の戦い』の再現でした。アメリカ深南部の偏見と人種差別、暴力という同じ素材を使いながら、前作にはないものが付け加えられます。それは、作者理想美の発見、作者エッセンスの発見とも言ってよいものでした。
 前作の青年ヴァルは同じ蛇皮を着ながら、哲学を知らない青年でした。美しい「足のない鳥」のイメージはこの作品で初めて語られますが、透明な羽を持ち、風のまにまに漂い流れ、地上に降りるのは死ぬときだけというこの鳥は、「売る者」と「買う者」しかいない残酷な現実世界のなかで、囚われることなく自由に生きるウィリアムズ理想の自画像でした。ヴァルは不思議な性的超能力を持つ野生人ですが、その「野生」とは「癒し」としてある「性」の優しさであって、ほかならぬウィリアムズのエッセンスでした。そんな美しい世界を三條演劇がどこまで再現できるのか、それが楽しみです。

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三條三輪

 テネシーに打ちこみ、テネシーの心を追い求めて、テネシーを上演しつづけてまいりましたが、彼がもっとも自身愛したというこの「地獄のオルフェウス」は一つの到達点とも思われまして、テネシー研究には最適のキャストとテキストです
 長田先生のお話のように、アメリカの暗部を書いて、(今はトランプさんの力で世界中の常識ですが)上演禁止となって、17年暖めていた作品が、リニューアルして再演となったわけで、テネシーの思い入れは大変なものがあったといいます。その通り、この戯曲の三分の一はト書きで、彼は俳優の演技から細かい動きにまで注文をつけていて、劇作家が書きながら演出している様なもので、その入れこみ様が分かるようです。今回の稽古はこの大量のト書きと首っ引きで、テネシーさんにそばから叱咜されてるみたいな感じで、いっそ「T・ウイリアムズ演出」と書こうかと思ったくらいでした。
舞台は、テネシーが地獄にたとえたアメリカ南部の小さないなか町。鳴海四郎氏の言葉を借りれば、「因習、無知、嫉妬、物欲、人種差別、私刑、暴力の渦巻く所、それはおろかで腐敗した現代の文明社会の縮図である。」
 ビューラたちに代表されるこの地獄に、適合できない女達もいました。黒人差別に反抗して町から追放を宣告されたキャロル、保安官の妻として暴力の日々を忘れようと絵を描くことに打ち込み夫からも誰からも理解されないヴィー。人種差別から秘密結社に家を焼かれ父を殺され、ボスの妻として買われ、嫌悪に耐え抜いているレディー。
 そこへ或る日、蛇皮の服を着た流しの孤独な青年ヴァルがこの町に迷い込んできました。彼は沼地育ちの自然児、蛇皮の服はその自然と孤独の象徴。都会に出て生きるために身を売り、今は堕落腐敗の生活から足を洗いたいと切望しています。そして「ジェントルワイルド」荒々しい自然でなく、文明に毒された今の人間自然、弱者を助けるような強いやさしさとシャーマン的な力で絶望している彼女たちの心をいやして行きます。しかし、そんなことを地獄が許すわけはなく──1957年11月ニューヨーク初演は激しいテネシーの思いこみに反してパッとせず、ロングランにはなりませんでした。彼はひどく落ちこみ麻薬の世界に、又、日本でも、この芝居は、文学座、民芸、等、錚々たる方達が何度か上演していますが今ひとつ不評と聞いています。暗すぎる、というのがお客様の大体の評判のようです。
 今回の演出では少々の明るさを考えてみました。テネシーは難かしい、暗い、という忌避なしに、お客様に彼のジェントルワイルドの叫びを伝えたい一心と、大方のお許しを願う次第です。
 それにしても彼のセリフは観念的ではない身近な具体なのですが、人間男女の機微、ゆれ動く心のひだを克明にしつこく追求。演技者としては自分のすべて、暗部までをさらけ出される感じで、演じる度に魂を吸い取られる様で、終わると快いヌケガラになってしまいます。そういう心の陰影を表現する演技としては、やはり「新劇」的な抑揚とアクセントのついた手法がと思います。若い人達にはそういう演技は古いと言われ、今は抑揚やアクセントのない、昔の言葉で「棒読み」が是とされる様です。これはTⅤ全盛の今、映像の世界ではカメラが主役、又声もモニターでいか様にも変えられる、となれば、なまじ演技などされては邪魔になります。それが舞台でも演技の模範になったのでしょうか。又昔の養成所では、まず客席にとどく声から修練させられました。が、今はマイクをつける、大劇場では拡声器が用意されている。日常的な声でいいわけです。それに、私共は芝居とは現実を捨象してより深く見せるものと教わりましたが、今は芝居は現実であってはならない、現実を見せるのは芝居じゃない、といわれます。まあ今の世界を見れば現実から離れたいのは当然かもしれません、それはいいも悪いもない、世の趨勢でしょう。ロボットに芝居させればいいという説さえある世です。「新劇」は近い日に消え去る運命なのでしょうか、そうとしても消え去る直前のローソクが一瞬明るく燃えるように、私共も燃えたいと望んでいます。
 とにあれどうぞ今ひとときを皆様とご一緒に(差別される黄色人種として)不毛の地に追いやられた先住民族インディアン白人警察官に簡単に射殺される黒人、その人々の叫びを開き、テネシイの心をつきつめて行きたいと願って居ります。       

 遠い昔  俺は歩いた
  美しい  天の野原
    澄み渡る  大空の下
     
俺は歩いた  天の道

 ある日俺は  地に落ち  生まれ
  ママは泣いた  俺のため

 地上の道は  濁って長い
  だけど俺は  忘れはしない
   昔歩いた  天の道
                 (公演パンフレットより)


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