ゴーリキー「どん底」

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ゴーリキーの「どん底」上演記

【ユーラシア研究 2019-6 よみがえるゴーリキー】より

     ゴーリキーの「どん底」上演記
            三條三輪

 ゴーリキーの最高傑作である「どん底」は 1901年~ 1902年にかけて書かれ、1902年、モスクワ芸術座においてスタニスラフスキーより 演出され上演された。
 最高と言う言葉には反論も多々あることと思うが、私ども新劇の芝居者にとっては、ゴーリキーと言えば「どん底」となってしまうのであ る。
 小山内薫は、明治の末、洋行中モスクワで初見して、当時人権という言葉さえ無かった日本に、何としてもこの人間尊重の芝居を、という 情熱で、1924年、日本ファシズムの台頭と大正デモクラシー終焉の時に、土方与志と共に築地小劇場を創立、人間自由の「新劇」を、官憲に抗して日本に樹立した。
 私事ながら、私の舞台人生はこの「どん底」を追い求めた人生だったような気がする。私がそもそもこのゴーリキー「どん底」と出逢った のは、六歳の時で、父に連れられて、「どん底」というものを初めて見て、非常にショックを受 けた。六歳の子供ながら悪女の「ワシリーサ」 に魅せられて、一生の望み、ワシリーサを演じたい思いで、当時女医であった母の後を継いで医師となっても止むことを出来ず、新劇の門を叩いたのである。 
 最初に所属したのは当時スタニスラフスキーシステムを日本に導入した下村正夫氏が主宰する新演劇研究所であった。新人達が、ある程度 出来るようになって、下村氏が「どん底」を初 めて手がけたのである。私は念願通りワシリーサの役を得て日本中を公演して廻り、自分がワ シリーサのような気持ちになるほど「どん底」というものに入れ込んだのである。やがて新演が終焉し劇団芸術劇場を親友と共に立ち上げたが、劇界ではしばらく「どん底」公演が無かったので、そこで又、「どん底」をやることに決心した。
 新演の「どん底」は大変な評判を呼び、自分のお客の指定席を獲得するのが大変で、喧嘩腰でうばいあいをしたものである。そして、しばらくぶりにした「劇団芸術劇場」での「どん底」も又大当りで、お客様が券を求めて俳優座劇場ふたまわり……。
 私はやがてその劇団芸術劇場を出て、跡見梵氏と今のぐるうぷしゆらを立ち上げたのだが、しばらく「どん底」をするチャンスに恵まれなかった。ミュージカルとか軽い演劇が称揚されるようになってきたのである。ことに新劇は、次第に衰退、新劇とは古典的演劇運動と書かれる程新劇を知らない若人達が増え、新劇という言葉も敬遠されるようになって来た。
 そういう中で「どん底」をやったいくつかの劇団もあった。だがその「どん底」は次第に形を変え目新しいものでなければならないというような風潮が劇界をおおって来て、たとえば派手なコサック舞踊を入れるとか、ミュージカルの「どん底」とか、ある「どん底」は、全員真っ白な衣装でやったという話も伝え聞いている。
 そういう「どん底」に対して私としてはあく まで、元のままの「どん底」、ルートフォーム で行きたいと思っていた。とにかく「どん底」をやりたい気持ちはどうしても抑えきれずに 2016年上演する機会が来たのである。永年渇望 を同じくして来た跡見氏の力強い上演提起と、お客様の要望に勇気づけられたのだった。
 夢見て来た「どん底」だが、いざ上演するとなると、かなりの決意が必要だった。
 改めて読み返すと、この戯曲の大きさ深さに今更ながら圧倒される。そして特に夫々の役に合った超個性的でしかもこの「どん底」に強い 意欲を持った役者を招かなければならない。又、中でも最大の危惧はお客様(観客動員)だった。 往年、「どん底」は「新劇の忠臣蔵」と云われる程必らず満杯の芝居だった。だが「新劇」の衰退が感じられる今、──この日本新劇のいわば古い芝居「どん底」を観ようというお客様がどれ程あるのか──何十回もの討論の末、そんな危惧よりも、この新自由主義の超格差社会の中、我々も又「どん底」の住人と同じ時限にあるのではないか、今この時こそ、上演する時だという結論を得、又多くのお客様から、「ぜひやって」というはげましをいただき、上演に踏み切った。
 倖いというか、若い世代まで実に個性あふれる俳優さん達が要請にこたえて意慾満々で集まって来てくれた。
 殊に劇の本質の重大な転機を担う巡礼のルカ役は、この人しか居ない、と、劇団俳優座の長老格、神山寛氏(昨年惜しまれて急逝されたが)への三年越しの出演要請が実って、快い許諾を頂戴したことは一つの契機となったのかもしれない。
           ☆
「どん底」のテーマに関しては、ロシア帝政 末期のツァーリの圧制に対する「革命的イデオ ロギー」から、「どん底」に落ちた人々のうめき」まで──、文学者、訳者から演出家まで、錚々 たる方々によって夫々に書かれていて、私どもが 云々するのは大変おこが ましいことに思えるが、まがりなりにも「演出」とあるからは、目標──テーマ──を定めなければ進まない。演出部としては、例えばサーチンのセリフ「人間をいじめるな……しかしもし一生涯起き上がることの出来ねえ程──おれをいじめた 奴があったら──おれはどうするか、許すか。なあに決して許さねえ。」に代表される様な、人 間をしいたげるものへの「怒り」、(それはイデ オロギーというより、もっと激しい人間の根源 的な怒りである)。そして当然しいたげられる ものへの熱い目線。ゴーリキーはその放浪時代 に出会った最下層の人々をモデルに、金も位階もはぎ取った裸の人間そのもののいとなみを描いたのか。ならばこれは圧政のもとに呻吟する暗い物語ではない。最低の境遇をはね返して、少しでもよりよく生きようとする人間の活力の物語と考えたい。我々は今回の上演を情熱の「どん底」と名づけた。
「どん底」の舞台が、ゴーリキーの町、「ニジニノヴゴロド」であることは、常識的定説であるが、帝政末期の雰囲気や人々の様子は、「チェルカッシュ」を再読。又、装置については、定番はあるが、「零落者の群れ」の木賃宿の描写で装置家と再検討をくり返したものだ。
 衣装に関しては、レーピンの「ヴォルガの舟曳き」や「巡礼」など多くの絵画が参考となった。
 チェルカッシュに見る情景や人物の精緻な描写を読むと、現実であれ想像であれ、ゴーリキーはそれらを具体的に、眼前に見ていたと思われる。彼のせりふは極めて具体的で、せりふを読んだだけで、その人物の動きが見えて来る、という凄さを有しているのだ。
 外国語の芝居では翻訳が最初の生命線となる。今回は数ある名訳の中から、本邦最初の「小内薫訳」をえらんだ。勿論過去をなつかしむ ものではない。先人の情熱を改めて想起し、新奇を追わずの心で、との想いだった。
 周知のようにこの芝居には主役というものがない。群衆劇とも言えるものである。
 ゴーリキーはその人物の一人一人に、それぞれの階層の人々の典型としての性格を付与し、命題を与えている。例えば男爵は無力、無為無能のくせに名門の家に生まれただけで、人々を見下して、人は自分に奉仕するのが当たり前だと思っている、貴族としての典型を、ブブノーフには「人間というのは川を流れるカンナっくずのようなものだ、……出来上がった家はちゃあんと残ってる……だが、カンナっくずは流れていく。」のセリフのように、或る諦観を持って、その牢獄でもあるような地下にどーんと居座っている。そういう庶民の代表ではないだろうか。 クリヨーイ・ゾーブそのせりふ、「もうじき春が来るなあ、いなかじゃあ百姓が鋤や鍬の手入れをして、畑へ出かける支度をしているんだ。ところが俺達ゃ」のせりふのように土を恋ふる農民の典型。そしてまたダッタン人は、イスラ ム教徒で腕を潰されて働けなくなっても、礼拝 は欠かさずコーランの教えをひたすら守って、何回も礼拝を続ける。二人はヴォルガ河の荷揚げ人足。卑民族のダッタンと農奴出身のゾーブにはそれ以外の職はない。作者は、盲目的な宗教信者としてコーラン絶対のダッタンを組み入れたのか。ゾーブは農民の暖かさでダッタンをかばってる。
 そして小説の中の自分になぞられて美しい恋愛を夢見ているナースチャは白馬の王子を常に夢見る若い女性を象徴しているのかもしれないが──。現実は街の娼婦で、ヒモの男爵にからかわれ、男達に嘲けられながら必死に夢を語る程憐れさは増す。「這ってでも行くよ、世界の 果てへでも」と叫んでも他に行き場はない。彼 女の絶望を残酷に描き出しながら、この社会最 下層の娘へのゴーリキーの暖い視線を感じさせられるのだ。
 主婦気取りのまんじゅう売り、クヷシニャは ロシアの大地の様な強い女を思わせて、けっこう男どもの母親的中心になり得ている。
 それに引きかえ役者は名も知られない一番の弱者。ひどいアルコール中毒、いつも弟分の様にサーチンにくっついて生きている。人が良く信じ易い。作者が彼を暖炉の上に坐っている様指定したのは、後に転げ落ちることを示唆しているのか。
 サーチンは主役のないと云われるこの劇の中でも、最も重要な役と言えよう。元電信技師で社交界にも出入りした教養を思わせる風貌、大きいが引き締まった体格、豊かな声量、体力智力ともに優れ、住人達から一目置かれる兄貴分的存在。権力者である家主を嗤い、又、弱い役者を常に庇護している。弱者を助ける義侠心と反骨の勇気が彼の核。(ゴーリキーはこの人物に最も強く自身を投射していると思われる)
 配役は、その役者の気質に合うことが最もよい成果を生む。
 三條はこのサーチン役を跡見に要望、外見、声も合うが、殊に正義感バカと云われた怒りん坊の反骨精神と、或る時、電車の中で盲目の老 爺が出口を探して困窮していたのを抱いて一しょに降りて安全な所まで送り、自分の行き先は忘れたと云う逸話の侠気の気質を目したのだ。  これはルカーの配役と相まって、今回の「どん底」の大きな成果につながったと思う。
(ルカーについては後述)
 家主のコストィリョーフは、小泥棒のぺーペルに盗みをさせ、盗品故買をやりながら、住人から強引に取り立てた宿料で燈明を絶やさず、人々には信仰の説教をする。老年だが、恐らく買い取った若い妻ワシリーサを監視し、その妹ナターシャを女中同様にこき使っている。形骸的宗教の具現者。
 又彼女たちの叔父、巡査のメドヴェージェフは、警察権力の末端のカリカチュアとして多少コミカルに描かれている。 小泥棒のぺーペルは、多血質、短絡的で一本気な若者の典型。ワシリーサの情人だが、彼女の強欲な性格に厭きて、妹のナターシャに想いを寄せている。が、ナターシャは彼を受け入れようとせず、ワシリーサは彼を放す筈もなく、泥棒稼業から抜け出したいがそれも出来ず、悶々としている。
 ワシリーサは自分を捨てる男を破滅させようと、ぺーペルに夫殺しをそそのかす。そして妹 ナターシャを痛めつけ、ナターシャがペーペルをうけ入れた日、その足に煮え湯をかけ、その騒ぎの中でペーペルはコストィリョーフを殺してしまう。「ワシリーサが俺に亭主殺しをそそのかしたのだ、」と叫ぶぺーペルの言葉を聞いた半死半生のナターシャは、姉とぺーペルの二人が亭主と、邪魔な自分をかたわにしたと誤解して二人を告発し、二人は警察に。ナターシャは絶望のすえ行方不明に、という破局がわずかに筋らしいもので、又一般に「どん底」の筋と思われている様だが──。
 ナターシャはペーペルの憧憬的な恋情の対象として、登場しただけで泥中の蓮の印象を与える清純な美しさでなければならない。従来ナターシャは、信仰深く、健気で、毅然とした芯の強い女性として描かれて来たが、今回の「どん底」では、アンナの死を見て、「あたしもいつか…こんなになって死んでしまうんだろう」… 幸福は来ない、と自分の運命への絶望感と人間 不信におびえる、いわば東洋的な忍従の女性と してみたい。この不安と絶望感が、三幕の誤解を納得させるものだと思う。(これは「ナターシャ の誤解がはじめて納得出来た」と大方のお客様に好評 をいただいた。)
 ワシリーサはよく言われる悪人ではない。作者は女性の二面、ナターシャには母性と情を、ワシリーサには愛欲と意志を、夫々にになわせ ているのではないか。女性のいのち愛欲が裏切られた時の極限の嫉妬と憎しみ、どうしても男を取りもどせないなら、破滅させなければ自分 が生きられない。男のストーカーは相手を殺すが女の力ではペーペルを殺せない、策謀を廻らすのは当然だ。あくまで「女」のギリギリの表現が求められる。
 芝居の幕開きの朝の喧噪、クヷシニャとクレシチの喧嘩、男爵に本をとられてナスチャの騒ぎ、ブブノフのからかい、サーチンのうなり声、 その中にアンナの咳が効果的にひびき、見事なシンフォニーを形づくっている。ゴーリキーは想像を眼で見るだけでなく、耳でも聞いていたのであろう。
 このブブノフのいう「朝から晩まで吠え通しさ」の宿に、巡礼のルカーが登場することで、大きな変化がまき起る。これが本質的な筋と云えるかもしれない。
 ルカはこの人々に希望をあたえようと美しい「うそ」を説く。
 今まで夫々に多くのルカを見て来たが、ルカの扱いは「どん底」という芝居の死命を制するものと言えよう。もっともらしいサギ師、悪人、と云われたこともあったが、我々としてはそうは取らなかった。勿論、詐欺師的要素はあるが、それは人間洞察、人間愛から出た行為、冷たい現実よりは、やさしい人間らしい虚構を受け入れさせて希望を与えたい。その想いから出たうそであり、聖性を主張しないキリストに擬せられる行為とも云える。だがその事は結局、彼らを破滅させるのだが──。  そのうそを、もっともらしくなく愛の真実で 説けるルカ──。この役者さんを探していた私 どもとしては、神山さん以外に無いと断定した。 その飄々としたお人柄、社会(権力者)の不正 への怒り、芝居に対する真摯で厳しい姿勢、自前の白いひげまでがルカそのまま、この方のルカでなければ「どん底」はやれないと、前述の通り三年越しで、お願いして実現した役で、思い通りのルカが生まれたことは感激。
 ルカは役者には、どこかの街にアル中を只で治してくれる病院がある。行って治して新しい生活をはじめるのだと説得、役者はいいなあ! と信じて酒を止め、旅費をためようとする。「街もねえ人間もねえ!」「うそだ!」この役者を媒体としてサーチンとルカの対決がはじまる。
 サーチン「じいさん、この泣き虫に何を吹き込んだんだ。」
「何だって折角決心しているのを引っくり返すんだね──
 ルカは又、アンナを安らかに死なそうとして「死ねば楽になる」死は美しいと天国の話をする。
 アンナ「あたしはまだ……もう少し生きていたいんだもの……あの世で苦しみがなくなるというんなら……この世でもう少し苦しんでも好いよ。」(アンナは最後の力をふりしぼって半身起す)ルカは「あの世へ行けば苦しいことはない…… 少しもない。と彼女を押し倒そうする。二人の 壮絶な戦い。彼女はそのまま息絶えるが、うそは勝たなかったのか。
 又三幕ではルカは、人類をあわれまなければ、とナターシャには有名な「あわれみの話」とペーペルには「真実を求めて破滅した男の話」を語る、ルカの独壇場。
 そしてぺーペルにはナターシャをつれてシベリヤに行けと云い、ナターシャにはペーペルと一しょになれと説く。ナターシャは遂に求めを 受け入れる。それを二階の窓からのぞき見ていたワシリーサによって例の破局となる。騒動の中、(恐らく流刑地シベリアの脱走人が)官憲を恐れたのかルカは逃亡、姿をくらましてしまう。
 美しいうそは消えなければならなかったのだ。
 役者は失望の「どん底」。
 本当の対立は四幕、ルカの品定めをめぐって人々の交響楽、ダッタン「あのじいさん好い人…腹ん中、ちゃんと掟あった。」ナースチャ「そ うさ…あたしゃ惚れていたよ。」男爵「あのじじいは山師だ。」ナースチャ「山師はお前さんだよ。」クレシチ「あのじじいは真実がきらいだった。(ダッタンを指す)しごとをしていて手をつぶされた…いよいよ切らなきゃならねえって話だ…これが真実だ。」
 サーチン「(拳にて机を打つ)静かにしろ。じい さんのことを悪く言うな。──そりゃあ成程あいつは嘘を言った…だが、それは思い遣りから出た嘘だ。思い遣りから嘘をつく人間は、世間に沢山あらあ…。その嘘が又、実に綺麗で、うっとりさせるようなものなんだ。──気の弱い奴 や…人の汁を吸って生きてる奴には──嘘が要るんだ…だが、自分で自分の支配の出来る奴や…人の額の汗をあてにしねえで、独立の出来る 奴には嘘は要らねえ。嘘は奴隷と君主の宗教だ…真実は──自由な人間の神なんだ。」
 サーチンはルカの気持ちは評価しても、嘘は 許していない。これは今回の眼目でもあり、当時の権力者の圧制下での小山内の気持でもあり(今もこういう嘘はまかり通っている)ゴーリキー の思いでもあったのだ。
 そしてサーチンの見せ場──人間賛歌がはじまる「人間たあ何だ。おめえでもねえ、おれでもねえ、あいつ等でもねえ。おめえだの、おれだの、あいつ等だの、ルカじじいだの、ナポレオンだの、モハメットだの……みんなを一緒にしたのが人間だ。(空中に人間の形の輪郭をえがく)分かったかい。これだ──こういう大きなものだ。人──間。素晴しいもんだ。豪勢な音がするじゃないか。にい──ん──げん。人間は尊敬すべきものだ。憐れむものじゃない……同情なんかで侮辱するものじゃない……。」、待ってましたの注目の場面だ。これはそのままゴーリキーの叫びなのだから。何十回もの討論と稽古、 その度の書きこみで跡見の台本は真っ黒だっ た。「人─間─」はロシア語の「チェラビエック」 に合わせてニ─、ン─、ゲ─、ンと強くのばす 型がオーソドックスときいたが、この度はそれ が声を押しつける感じになるので考えた。基本 は前に掲げた「怒り」。人間ていいなあアから、 こんなにいい「人間」を抑圧するな! という 怒りで、と定めていたので、日本語として、あ まり延ばさず、しかし力強く言って、つれて体もキリッと動かしたいとした。日本式「男らし さ」を追求したかったのだ。これは一応の評価をいただいたように思う。
 やがて人々が帰って来て、ブブノーフの音頭で酒もり、そして最後の「どん底の唄」になる。
 夜でも昼でも牢屋は暗い
 いつでも鬼めがあああ 窓からのぞく
 のぞことままよ 塀は越されぬ
 自由にこがれてもあああ くさりは切れぬ
 ああこの重たい 鉄のくさりよ
 あああの鬼めがあああ 休まぬ見張り
 まさにツァーリの圧政のもとの唄が
 肺腑をえぐる様につづくが、現代に批する所は無いだろうか。
 劇はかけこんだ男爵の「役者が首をくくった!」の叫びに、サーチンの「馬鹿野郎折角の唄を台なしにしやがった」という悲痛な弔辞で終る。 この馬鹿野郎にゴーリキーの深い怒りの悲しみを感じるのである。  出来れば又の機会の再演を望んでいます。「どん底」はそういう魔力のある芝居です──。

(さんじょう みわ 劇団「虹企画/ぐるうぷ・しゅら」主宰/耳鼻咽喉科医師)
三條三輪
1,2,4幕舞台 虹企画シュラ
3幕 新演
ワシリーサ/三條

「どん底」演出ノート

「どん底」演出ノート(2016,4)
                              虹企画/ぐるうぷ・しゆら
                                         演出/三條三輪
                                         演出補佐/跡見梵

永年夢見て来た「どん底」だが、いざ上演するとなると、かなりの決意が必要だった。
改めて読み返すと、この戯曲の大きさ深さに今更ながら圧倒される。常のことながら、特にこの芝居にはどれ程の演出力を要求されるか。そして特に夫々の役に合った超個性的でしかもこの「どん底」に強い意欲を持った役者を招かなければならない。又、中でも最大の危惧はお客様(観客動員)だった。往年、「どん底」は「新劇の忠臣蔵」と云われる程必らず満杯の芝居だった。だが「新劇」の衰退が感じられる今、──(新劇という言葉さえ知らない若い人たち、或辞書では新劇は「古典的演劇運動」となっている)この日本新劇のいわば古い芝居「どん底」を観ようというお客様がどれ程あるのか──しかもわが劇団は出演俳優に一切ノルマを科さない。これらすべて、身の程知らずというものではないか。何十回もの討論の末、そんな危惧よりも、この新自由主義の超格差社会の中、我々も又「どん底」の住人と同じ時限にあるのではないか、今この時こそ、上演する時だという結論を得、又多くのお客様から、「お宅なら出来る、ぜひやって下さい」というはげましをいただき、今年四月の上演に踏み切った。
倖いというか、発熱の結果というか、若い世代まで実に個性あふれる俳優さん達が要請にこたえて意慾満々で集まって来てくれた。又、コヤは小劇場では数少ないかなり高いタッパの大塚よろず劇場を押さえられた。(この劇場の方も又この芝居を歓迎してくれた。)
     ☆
外国語の芝居では翻訳が最初の生命線となる。今回は数ある名訳の中から、本邦最初の「小山内薫訳」をえらんだ。勿論過去をなつかしむものではない。明治の末、洋行中モスクワで初見して、当時人権という言葉さえ無かった日本に、何としてもこの人間尊重の芝居を、という情熱が溢れていると跡見は感動。三條も同感で、大正十三年、日本ファシズムの台頭と大正デモクラシー終焉の時に、土方与志と共に築地小劇場を創立、人間自由の「新劇」を、官憲に抗して日本に樹立した先人の情熱を改めて想起し、新奇を追わずルートフォームの心で、との想いだった。
但、今は死語の、あまりに解りにくい言葉は、心を損なわない配慮のもとで現代語に置きかえさせてもらった。併し、ト書きは文語文ながらあまりに名文だったので、台本には敢えてそのまま記載した。(或る稽古の時、(直ちに出ず)とある所でその役者氏がなかなか出て来なくて聞くと、彼は「出ず(イず)を「デず」と読んで出てはいけないと思ったのだった、そんなエピソードもあったが、演出部としてはそのト書きの行間に迸る熱気を感じてほしかったのだ。倖い、現代っ子としては少々難解な文語文に誰一人文句を云わず読み取ってくれたのには感謝だった。
     ☆
「どん底」のテーマに関しては、ロシア帝政末期のツァーリの圧制に対する「革命的イデオロギー」から、「どん底に落ちた人々のうめき」まで──、高名な文学者、訳者から演出家まで、錚々たる方々によって夫々に書かれていて、私どもが云々するのは大変おこがましいことに思えるが、まがりなりにも「演出」とあるからは、目標──テーマ──を定めなければ進まない。演出部としては、例えばサーチンのセリフ「人間をいじめるな……しかしもし一生涯起き上がることの出来ねえ程──おれをいじめた奴があったら──おれはどうするか、許すか。なあに決して許さねえ。」に代表される様な、人間をしいたげるものへの「怒り」、(帝政時代の社会事情ではこの言葉が精一ぱいだったのだろうがそれはイデオロギーというより、もっと激しい人間の根源的な怒りである)。そして当然しいたげられるものへの熱い目線。ゴーリキーはその放浪時代に出会った最下層の人々をモデルに、金も位階もはぎ取った裸の人間そのもののいとなみを描いたのか。ならばこれは圧政のもとに呻吟する暗い物語ではない。最低の境遇をはね返して、少しでもよりよく生きようとする人間の活力の物語と考えたい。我々は今回の上演を情熱のどん底と名づけた。
     ☆
演技としては怒りだからと云ってやたら大声を張り上げて喧嘩をするわけではない。只、為している行動を誰に向かって何のためにしているのか、はっきりと明確に、従ってミザンもセリフも明確にメリハリをつけなけなければならない。これはかつての新劇に求められた演技だった。昨今では、「古い」とされ、ナチュラルな日常そのまま、いやそれよりもメリハリをつけない、モノトーナスなセリフが是とされている様に思われる。今、TV全盛時代、その映像演技が称揚されるのは当然の帰結、カメラ、マイクを媒体とした、否、カメラマイクが主役の映像演技に、なまじのめりはりなどつけたら邪魔になる。だが舞台は客席と違う次元の〈へだたり〉があり、ナマの人間が動きナマの声で演技する。当然映像演技とは物理的な違いがあるのではないか。近頃は小さな喋りを拡大する装置を具えた劇場もあるが、ナマの人間の動き、ナマの肉声の迫力は別物だと思う。又、一方では、芝居は現実であってはならないと大声で、非現実的に演ずるムキもある様だが私共としては「芝居は現実を捨象してより明確に見せるものとされた「新劇」演技を採るとした。(只、同じ、しいらげられた者への激しい想いでも、ここ十数年上演して来たテネシイ・ウィリアムズのヴァイオリンのトレモロのふるえる様な繊細なセリフに対して、ゴーリキーはチェロかドラム、ロシヤの大地をどん、どんと踏みしめる様な野太さがある、これは考慮したいと思った。)
もう一つの大きなテーマとして、言い古されたことだが、巡礼ルカーの、「われわれは人類全体に対して、憐れみの心を持たなくてはならない」などの宗教的慰撫に対するサーチンの「人間は尊敬すべきものだ、同情なんかで侮辱するものじゃない」──この対立だが、これは又各幕について考えよう。
     ☆
ゴーリキーのドラマトゥルギーは、まことにオーソドックスで四つの幕は見事に起承転結の則を踏まえている。まず一幕、装置としては、装置家の櫻井睦展氏には新奇をてらうアブストラクトは避け、単純化写実主義をと頼んだ。一、二、四幕には半地下の、半窓から差す一條の光のみの閉塞感を求めた。(これは演出のあくなき要求で十何回図を書き直してくれた櫻井氏の忍耐と才能、それに自らナグリ(金槌)やインパクトドライバーを持って大道具製作をする跡見やバイトを返上して手伝ってくれた役者諸君の力で実現した。又当日、演出のムリを通してくれた照明の小関英勇さんの力も大きかった。)
     ☆
「起」としての幕開きは、瀕死の病床(肺結核末期とした)アンナの「もう夜が明けたんだね。お願いだから……どならないでおくれよ……喧嘩しないで。」の言葉通り。朝の喧噪の混沌の中で、住人達が紹介され、その人々の間の、後に展開して行く幾つかのドラマの元が顕示されて行かなければならない。衆知の様にこの芝居に端役はない、一人一人がある人間の典型として命題を背負っているのだ。
市場で肉まんを売って自立しているクワシニャは、超豊満、ロシヤの働く女の典型としで元気一ぱい。主婦気取りの自信と、更に巡査のメドヴェージェフに求婚されているが振っているという女の可愛い見栄を部屋中に誇示する。いやな女になってはいけない、回転早く江戸っ子風にチャキチャキした言葉。(女優の小川知さんは申分なく色っぽいが、京都出身のはんなりした奥様で、この要求は酷だったが演出共々最後まで練習必死だった。)
「うそつけ」と突っかかる錠前屋のクレシチは、六カ月の新入りで、不器用、正直に働く程貧乏になる下請けの典型。「俺はここの浮浪者どもとは違う、まっとうな職人だ、きっとここから出てやる。」とやすりの音を立てつづけ、疎外され気味。その文句は当然直正面切ってでなく、上目使いで云われる。(役者の石川君の半年がかりの自前のもしゃ髭は頑固者らしくよしとした。)(クレシチの命の、万力と鉄砧の本物の古道具、サモワールも帝政時代の本物を掘り出した。)
アンナは自分を冷遇して死病にしながらなぐさめるすべも知らない夫に絶望、何も求めず、ここでは死を諦観している様に見える。(咳の場所を定めること) 瀕死だがメイクは死相にしない。(肺結核の病人は熱で頬紅く眼は輝いてむしろ美しいので)
今、メイク無しが風潮だが見る人を劇の世界に誘うには、メイクは大きな要素と思われる。今回はかつらまでしっかり定めた。
「貴族生まれ」と称する「男爵」は落ちぶれても「人は自分に仕えるのが当たり前」と尊大だが中身は実質も力も無い、貴族の本質を示して顰蹙を買う存在、若い娼婦のナースチャの情人として、たかって生きているが、最近彼女は彼にいや気がさし、恋愛小説のヒロインに自分を擬して本に没頭しようとする。男爵は必死に気を引こうとするが彼女は手ひどく拒否、この騒ぎはクワァシニャ達の喧嘩と交錯、そこにサーチンの冷やかしのうなり声とブブノフの皮肉の茶々が混って、「朝っぱらから吠え通しさ」の世界となる。
サーチンはここの兄貴分らしく、中央の大きいベッドに大の字で寝る。マッチョでない大きな体格、元教養ある技師だったことをおもわせるマスクとひびく声が必要。ブブノフはこの現実に安住する様に、一番いい窓下のベッドにこの部屋の主然とデンと坐し皮肉警句をとばす。低いがよく通る声。ゆったりとした体もほしい。二人はお互い認めあう。
役者は名も知られない一番の弱者。ひとりでは暮らせない、いつも弟分の様にサーチンにくっついて生きている。人が良く信じ易い。時に芝居のセリフを唱えて存在を示そうとする。
サーチンは彼を常に庇護している。この、弱者への侠気と反骨の勇気が彼の核。彼は又何でも楽しんでしまう稚気もある。(ゴーリキーはこの人物に自身を投射しているのでは。)
(三條はこのサーチン役を跡見に要望、外見、声も合うが、殊に正義感バカと云われた怒りん坊の反骨精神と、或る時、電車の中で盲目の老爺が出口を探して困窮していたのを飛びついて抱いて一しょに降りて安全な所まで送り、自分の行き先は忘れたと云う逸話の侠気の気質を目したのだ。同じくブブノフには永年の盟友、イヤゴー、クローディアスの個性派、いつもわれ関せずと坐すが、云わせると止まらない博識評論屋の森奈美守を頼んだ。──配役は姿、声は勿論だが、気質が大変物を言う──三條としては、彼のコストイリョフも高く評価していたが、今回は多く舞台にいる役で、劇の土台をガッチリ支えてほしい願いだった。)
その家主コストイリョフは因業爺の外見。底意地悪く陰険、だが体はひずんで弱々しく見えたい。民衆を抑える「抑圧者のための宗教」の具現。山口勝久さんのワルの工夫はよし。
ペーペルは直情径行の若者、動きは俊敏、すべてに若々しさを要求した。短絡的で人が良い。サーチンに頼まれるとすぐ小銭を出してしまう。サーチンは喜び、役者と出て行く、「さあ、サルダナバール。行こうぜ。」
そして役者「行こう、ネブカドネザール……たらふく飲もうぜ。」この時の両者の性格と関係とを示す所で、明るく強調したい。
この後のペーペルとクレーシチ、あとからブブノフの良心問答は、二人の職人の対比を出せたら面白いが。
次のナターシャとルカの登場は、この芝居の大きな核として鮮明に印象づけたい。
ナターシャはペーペルの憧憬的な恋情の対象として、登場しただけで泥中の蓮の印象を与える清純な美しさでなければならない。従来ナターシャは、信仰深く、健気で、毅然とした芯の強い女性として描かれて来たと思われるが、今回の「どん底」では、アンナの死を見て、「あたしもいつか…こんなになって死んでしまうんだろう」…幸福は来ない、と自分の運命への絶望感と周囲を見ての人間不信におびえる、いわば東洋的な忍従の女性としてみたい。姉との事もあるが、この不安と絶望感が、三幕の誤解を納得させるものだと思う。
ルカは住人に受け入れられる様、剽軽なあいさつ、「面白い爺さん」に見せたい。
次のルカと男爵の対決で、男爵が散々にやられる所は面白く際立てたい。どうも作者は当時の圧制者である貴族の典型としての男爵を、芝居の中で大いにいじめている様な気がする。男爵の冨田祐一さんは気品佳し、で尚のこと。
アリョシカの登場は騒々しく。彼の官憲への怒りは、少年ぽく全身を使って表現されたい。(この役はゴーリキーの少年時代と重なる)
次でワシリーサの登場は激しい憤怒、「ペーペルがワシリーサに飽きてナターシャを求めている。」とアリョシカの吹聴のために自分が捨てられる女であることを皆が知ってしまった。馬鹿にされてたまるか、の思いが、先ずアリョシカを痛めつけて追い払い、いつもより層倍威丈高に怒鳴りまくらなければならない。新入りの爺いなどに軽く見られてたまるか、ワシリーサの苛立ちと激しい気性の展開。悪女三條は健在だった。
巡査のメドヴェージェフは頭のまわりはとろいくせに、人民には大威張りの大声で詰問する、権力機構の末端の典型を担う。だが彼独自の性格として、お世辞には忽ちとろける可愛さが必要。(一寸コミカルな味つけとして大声で)
ワシリーサとナターシャの声(ワシリーサの妹への打擲のはじまり。)
ブブノフとクワァシニャは大よろこびで。だがメドヴェージェフはいやいや退場。
ルカ「どういう訳でだね。」
アンナ「あんまり食べ物があり過ぎるからだよ……丈夫過ぎるからだよ。」
この言葉でルカはアンナを見直し、一人の人間として認識し、名前を問う。アンナは自分を一人の人間として認めてくれた相手にやっと出逢ったのだ。二人の関係のはじめ。
幕切れのルカのセリフ「あんまり世間の奴にぶたれたんで、こんなに優しくなってしまったのさ。」は彼の過去を写し余韻を残さねばならない。(フェイドアウトはルカを残してゆっくり)
     ☆
二幕は3セクションに別れる。
下手のアンナは過去の苦しみを訴え、ルカは慰めながら、彼女が安らかに死を受け入れる様説得する。上手ブブノフはメドヴェージェフがよそ見をする度に駒をうまく並び替えてしまう。中央のカルタは、ここではセブンポーカーを想定した。仕切るサーチンはさっそうとやってほしい。男爵(貴族)の無能ぶりも際立たせなければならない。「もう一度やる。」ダッタンは一言、大声。初登場の二人はヴォルガ河の荷揚げ人足。卑民族のだったんと農奴出身のゾーブにはそれ以外の職はない。作者は極めてプリミティブ、盲目的な宗教信者としてコーラン絶対のだったんを組み入れたのか。片言だが自信の大声。ゾーブは農民の暖かさでだったんをなだめる。
どん底の唄は下手でもあくまで役者の唄、美しいオペラではない。ここでは鼻唄風だが、最後に歌われる二重唱も、ここから──(権力の圧制)から逃れ出たい人々ののぞみとうらみ、の劇中歌、(昔、有名オペラ歌手をゾーブに起用した「どん底」を見たが、声は素晴らしかったが、芝居が消えていた。)
ここではサーチンのいかさま振りと男爵の無能、だったんの抗議、なだめるゾーブ、廻りの遅いメドヴェージェフからブブノフのまき上げ、アンナの訴えとルカの説得等、各自の行動が軽快なテンポで明示されなければならない。演出力の問われる場面だ。
男達の喧噪を通りぬけて、アンナの声は細いが透徹して響かなければならない。
二幕はルカの行動の場、今まで夫々に多くのルカを見て来たが、ルカの扱いは「どん底」という芝居の死命を制するものと言えよう。
もっともらしいサギ師、悪人、と云われたこともあったが、我々としてはそうは取らなかった。勿論、詐欺師的要素はあるが、それは人間洞察、人間愛から出た行為、冷たい現実よりは、やさしい人間らしい虚構を受け入れて希望を与えたい。その想いから出たうそであり、聖性を主張しないキリストに擬せられる行為とも云える。だがその事は結局、彼らを破滅させるのだが──。そのうそを、もっともらしくなく愛の真実で説けるルカ──。この役者さんを探していた私どもとしては、神山さん以外に無いと断定した。拙作「青白い鳥」、T・ウィリアムズのかもめ「トリゴーリンの手帖」で共演させていただき、その飄々としたお人柄、社会(権力者)の不正への怒り、芝居に対する真摯で厳しい姿勢、この方のルカでなければどん底はやれないと、三年越しで、お願いして実現した役で、思い通りのルカが生まれたことは感激。
ここでルカの説得を受ける「役者」は、全面的にその言葉を受け入れ、甦る希望の喜びを表現してほしい。(「役者」の金谷ひろしさんはアングラ系の大ヴェテランだが、子供の様な無邪気さの演技を展開され、ルカの神山さんが吹き出してしまう一幕もあった程で後にナターシャに「俺は出て行く」と告げる所では見事な「でんぐり返し」で喜びを表現され、演出としては後の悲劇につながるユニークな役者像としてそれをいただいたのだった。)
この役者を媒体として、サーチンとルカの対決がはじまる。
次の「おじいさん……話をしておくれよ……くるしくって……」のアンナは、肺の殆どが冒され、酸素も殆ど入らない状態を想定、息の混った破擦音で話す。(若い女優、佐久間夏美クンは、こんな音ははじめてで、一からの勉強と大変苦心してマスターした。)
次のルカの声はやさしいがはっきりと残酷にひびきたい「なあに何でもないよ、死ぬ前には誰でもそういう風になるものさ、」そして「死ねば楽になる」、アンナ「あたしはまだ……もう少し生きていたいんだもの……ほんの少し……あの世で苦しみがなくなるというんなら……この世でもう少し苦しんでも好いよ。」(アンナは最後の力をふりしぼって半身起す)ルカは「あの世へ行けば苦しいことはない……少しもない。と彼女を押し倒そうする。二人の壮絶な戦い。彼女はそのまま死ぬが、うそは勝たなかったのか。ここは何度も力一ぱい稽古してもらった。
ブブノフの「人間という奴は川を流れる鉋っ屑の様なもんだ……出来上がった家はチャンと建っている……だが、鉋屑はどんどん流れて行く。」と神様はあるか、へのルカの「あると信じれば神はある、信じなければない」は彼の宗教観として、じっくりとしっかり印象づけるよう云われなければならない。
ペーペルはワシリーサから逃れられない、ナターシャには振られる。鬱屈した若者の気持を強く表現するよう要求。古谷一郎さんはよくこたえて、カッコいいだけでない、深みのあるペーペルを創ることが出来た。
ワシリーサは外でブブノフの退場を立ち聞きして入って来る意。どんなことをしても、男を放さない決意。
ワシリーサはよく言われる悪人ではない。作者は女性の二面、ナターシャには母性と情を、ワシリーサには愛欲と意志を、夫々にになわせているのではないか。女性のいのち愛欲が裏切られた時の極限の嫉妬と憎しみ、どうしても男を取りもどせないなら、破滅させなければ自分が生きられない。男のストーカーは相手を殺すが女の力ではペーペルを殺せない、策謀を廻らすのは当然だ。あくまで「女」のギリギリの表現が求められる。(ここから、ン十年前と同じワシリーサ役の三條に対して、彼女が舞台に出ている時の跡見の演出は凄まじい厳しい要求だった。ペーペルとの格闘場面、そこだけの起承転結を定め、中央から下手上手へとペーペル追って、肉体、おどかす泣く、三條の技術のありったけをひっぱり出した。──愛欲表現は極めつきの三條もその場が終わると眼が見えなくなる程の稽古だった。)
ナターシャの「あたしも……いつか……こんなになって死んでしまうんだろう。」は、ハッキリ、舞台端に出て、際立てたい。(照明。)又だったんとゾーブの無神経な言葉への怒りは強いが、なじるより悲しみから、自分のこととしての憤り。
ゾーブのもうすぐ春が来るなあ──からの有名なセリフはゆっくりとあこがれの眼線、粒立てて──(照明!)
サーチンと役者の出はありったけの声、「町もねえ人間もねえ!」「うそだ!」二人の闘争の開始として強く叫びたい。ルカの登場は二人の間にくさびを打つ様に立つ。
     ☆
三幕(転)
文字通り地下室から明るいコストイリョフの家の裏の空き地への転。高い防火壁と二階家、(窓)。かつて転換に四十分かかった所があったが、櫻井氏と跡見の工夫で大道具の転換は数分。
幕開きナースチャの語り、小説のヒロインを自分と信じて。(若い水沢あやクン、今風に一寸モノトーナスなのを、声ウント張って、メリハリ思い切りつけて、の指示に「オーヴァーではないですか?」と心配。(演出は──彼女はいつも男爵に馬鹿にされているが、今日はルカとナターシャが聞いてくれる、二度とないチャンス、命がけで信じてもらうくらいの心、納得の行く行動なら、どんな事をしてもオーヴァーにはならない、と説明、彼女は納得、力一ぱいの語りになる。)
男爵にいじめを非難したルカは、人類をあわれまなければ、とナターシャには有名な「あわれみの話」とペーペルには「真実を求めて破滅した男の話」を語る、ルカの独壇場。(「あわれみ」遠いバラライカをBGに静かな声で、やさしく、真実の方は仕方ばなしでやや強く。)
「俺はお前に話がある、じいさんの前で」
ペーペルの激しい求愛(上着を脱ぎ捨て、ひざまづいて)「心底から俺はお前に惚れたんだ」「承知しておやり、承知しておやり。いい人間だよ。……」「(男にすがりつく)じゃあ……たった一つ……一度でもあたしをぶったり……馬鹿にしたら……もうおしまいよ、……あたしは首をくくってしまうか、でなけりゃ……(これはナターシャの自分の運命への絶望、不安、人間への不信を押し殺そうとする叫び、指をギュッとつかみ、眼狂気の様に男の眼を見ること。後のペーペルへの疑惑へつながる。)
妻の葬式で一切を失ったクレシチの呪詛を混ぜた叫びだがそれを一層助長。
窓から嘲笑するワシリーサは後の破滅を匂わせること。
出て来たコストイリョフの形式的権力側の宗教観とルカの人間的宗教観との対決は(年寄り同士の対決ニコニコと苦虫?)
窓から首を出したブブノフの、女房と男から逃げ出した過去は一寸コミックに明るく語られる。
ワシリーサがナターシャを殺しかけたことを知ったルカ──脱走人である彼は官憲から逃げる。同情のうそは消えなければならない。この遁走の印象として彼の背嚢とコップが立てるカチャカチャの音がそれを引き立てた。
ナターシャが支えられての出からの群衆シーンは、雑然とした中で、サーチンの配慮、ワシリーサの勝ち誇り、ペーペルのコストイリョフの殺しとブブノフの示し、それらが鮮明に見えなければならない。稽古は何回となくくり返された。そして最後のナターシャの叫びに入る。彼女の誤解が、その不安感から当然と思われた方が多かったのは成功だった。
     ☆
余談だが、三幕アタマの女二人から発想したが、今回のどん底の衣裳プランを受け持った三條としては、「どん底」だからと只汚いものにせず、汚しはかけても、元は鮮やかな色を保たせたかった。そして、女性だけでなく、全部の役の色を変えた布を買い集めた。ナターシャは清らかなグリーン、ナースチャは若い娼婦のピンクと紅、ワシリーサは欲望の赤と、陰謀の黒の二点、ペーペルは若いブルー、皮肉屋のブブノフは黄、サーチンは男性的なライトグレイとルカは旅人のベージュ等に……そして女六人分の衣裳(上着と全円スカート)を引き受けてくれた今川さんはその上に男十四人のルパシカまで頼みこまれて、目を廻しながら一人で縫い上げてくれたらしい。こういうまわりの方の力をいただきながら芝居は成り立って行く。
     ☆
四幕(結)幾つかの大きなドラマの終結、有名なセリフの羅列、火のつく稽古が必要だった。
サーチンとルカは劇中では三幕で一瞬しか直接対決していない。サーチン「じじい──この泣虫にどんな火をつけたんだ。」ルカ「お前さんは──なんだって折角決心してるものを、ひっくり返そうとするんだね。」二人は互いに相いれないことを察知して話をそらしてしまう。そのあとの騒ぎでルカは遁走し、役者は失望のどん底。
本当の対立は四幕、ルカが去って、ルカの品定めをめぐって人々の交響楽、サーチンが指揮者、ダッタン「あのじいさん好い人…腹ん中、ちゃんと掟あった。」ナースチャ「そうさ…あたしゃ惚れていたよ。」男爵「あのじじいは山師だ。」ナースチャ「嘘だ。山師はお前さんだよ。」男爵「黙れ、レディ。」クレシチ「あのじじいは真実がきらいだった。…見るが好い。(ダッタンを指す)しごとをしていて手をつぶされた…いよいよ切らなきゃならねえって話だ…これが真実だ。」
サーチン「(拳にて机を打つ)静かにしろ。じいさんのことを悪く言うな。──そりゃあ成程あいつは嘘を言った…だが、それは思い遣りから出た嘘だ。思い遣りから嘘をつく人間は、世間に沢山あらあ…。その嘘が又、実に綺麗で、うっとりさせるようなものなんだ。──気の弱い奴や…人の汁を吸って生きてる奴には──嘘が要るんだ…だが、自分で自分の支配の出来る奴や…人の額の汗をあてにしねえで、独立の出来る奴には嘘は要らねえ。嘘は奴隷と君主の宗教だ…真実は──自由な人間の神なんだ。」
サーチンはルカの気持ちは評価しても、嘘は許していない。これは今回の眼目でもあり、当時の権力者の圧制下での小山内の気持でもあり(今もこういう嘘はまかり通っている)ゴーリキーの思いでもあったのだ。サーチンは嘲りと怒りをこめて、強く押し出して言わなければならない。と、跡見は自らに要求。
ルカの品定めから、ここから出たいと切望しながら行く先の無いナースチャの男爵への激しい当たり方、からかいからいじめ、コップを叩きつけるまでのエスカレート、体をつかって思い切り派手にする。
その騒ぎの中、役者はますます生きる力を失くして行く。絶望の極みの役者の叫びが「予も死ぬのじゃ、…お前達どうして生きているんだ!」「あやつはきっと見つける、何もない所を」心ない男爵に、「吠えるない」と云われ「吠えてやらあ」で、命をかけてと思い切り大声で叫んでもらった。役者の「死」、この劇のカタストローフへ、吠えろ! サーチンは役者の心を慰めようとするが──。役者は死ぬ。
ルカとの対決でサーチンは勝ったのだろうか。あまりにも辛い勝利だ。役者の死を聞いたサーチンのセリフ「馬鹿野郎」は役者への弔辞であると同時に、止められなかった自分への悔い、跡見は悲しみを深い怒りの声で表現した。感極まったとき、泣く芝居は多いが、泣くと感情はうすくなってしまう。
(演技論として、よく感情こめて、という指示が出されてというが、感情は意志によって出て来ない。感情は行動の結果とはスタニスラフスキーだけでなく、ディドロも感情を入れるのはムリ、涙腺マネで小指の先までその時の状態を再現出来ないと云ってぐっと泣くのをこらえることでむしろ泣けるのではないか。
そのサーチンの見せ場──人間賛歌「人間たあ何だ。おめえでもねえ、おれでもねえ、あいつ等でもねえ。おめえだの、おれだの、あいつ等だの、ルカじじいだの、ナポレオンだの、モハメットだの……みんなを一緒にしたのが人間だ。(空中に人間の形の輪郭をえがく)分かったかい。これだ──こういう大きなものだ。人──間。素晴しいもんだ。豪勢な音がするじゃないか。にい──ん──げん。人間は尊敬すべきものだ。憐れむものじゃない……同情なんかで侮辱するものじゃない……。」は、待ってましたの注目の場面だ。何十回もの討論と稽古、その度の書きこみで跡見の台本は真っ黒だった。「人─間─」はロシア語の「チェラビエック」に合わせてニ─、ン─、ゲ─、ンと強くのばす型がオーソドックスときいたが、この度はそれが声を押しつける感じになるので考えた。基本は前に掲げた「怒り」。人間ていいなあアから、こんなにいい「人間」を抑圧するな! という怒りで、と定めていたので、日本語として、あまり延ばさず、しかし力強く言って、つれて体もキリッと動かしたいとした。日本式「男らしさ」を追求したかったのだ。簡単に言ってもこれも大変で、照明さんとの打ち合わせも大変だった。この「男らしさ」は一応の評価をいただいたように思う。
サーチンに対する「男爵の述懐──おれの一生は、ただ着物を脱いだり着たりしただけのような気がする…」も時間をかけた。これは椅子に坐ってあまり動かずにと思ったが、役者さんとしては立つ方が確実に表現出来るということで、何回か調整、照明その細かい打ち合わせも大変だった。
役者が死にに行く場面は、「俺は行く」でサーチンの寝顔をもう一度名残惜しげに見てもらい、又そこを照らしてもらった。
そのしじまの後のけたたましいブブノフとメドヴェージェフの登場は明るく赤っぽくとお願いした。次でクワシニャ、ゾーブ、それにアリョシカの唄と踊りも加わっての盛り上がりは、人々のエネルギーの爆発として出来る限りの早いテンポを要求、たいへんな稽古だったが活力が「どん底の歌」 に伝わり、役者の死の落差につながって、前述のサーチンのセリフで幕がしめられたと思う。
     ☆
終演後劇場のお客様に見えない扉のかげで御会話がもれ聞こえてしまった。
「面白かった」「こんな芝居があったんだね」とのお声もありがたかったが、熟年の男の方の声で、「これが新劇というものだよ」というお言葉が何とも嬉しかった。出来れば又の機会の再演を願って、やれなかった事を、ぜひやり直してみたいと望んでいます。「どん底」はそういう魔力のある芝居ですから──。
                                        (テアトロ2016、12月号より)
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