三條三輪戯曲集2
1992年11月初演(半年後阪神淡路大震災、東日本大震災直前2月再演)
大企業による水の独占、森林破壊、地震、地割れ、液状化現象……
環境破壊に注目した意欲作‼
おとぎ噺劇画
聖都市壊滅幻想
作・演出 三條三輪
近未来のある日、 新宿が、 東京が滅亡する⁈
20××年、ハイテク、バイオ、
金、金、金の日本。新宿は巨大
企業サクラグループに支配されていました。
会長桜林太郎が君臨する
サクラセンタービルの
きらめく電飾の下、
廃棄物や酸性雨で木も草も
つつじも枯れ果てた
中央公園には、
闇の中にうごめく
泥棒グループが……
地球のうめきが聞こえます。
地球が怒ります。
赤い、赤い、赤い終わりの時が……
揺れ崩れる大地の底で
殺しあう宿命の母と子は……
遠い二十世紀末の中央公園。
新緑の木々、満開のつつじ。ラケットをもったカップル。
他、何組かのカッ プル。
若いアザレアと若い男(林太郎の父)
アザレア きれい、アザレア!
男 アザレアは日本語でつつじ、つつじだよ。中央公園のつつじはこの辺じゃ一番だもんね。……座ろうか。僕、心臓が一寸ね、息切れし易いんだ。(二人ベンチに座る)
アザレア 大丈夫?
男 ああ。ほんと、満開だ。精一ぱい咲いてる。君みたいだ。
アザレア Tu Tu Ji?
男 ツ。ツ、ツ、ジ。Tsu。
アザレア Tu Su Ji. あん、だめね あたし。
男 つつじくらい言えなくたってどうってことないよ。普通に話していれば、日本人と変らないもの。
アザレア あたし半分日本人よ、死んだママが言ってた。お父さん探しに留学生の資格とって日本に来たんだもの。
男 何よんでるの?
アザレア ア、だめ、
男 「ハイテク情報、ヴァイオの現状」……こんなむづかしい本、どうして……
アザレア あなたのパパの会社、ヴァイオに力入れるって書いてあったから、ウウン、結婚したいなんて思っていないわ。あなたは桜グループの社長さんの一人息子。半分日本人の、東南アジアの貧乏な女。パパがOKする筈ないね。あなたのフィアンセのことも知ってる。ハイソサエティ。
男 親父の決定で、僕の義務なんだ。──あっちは氷で、君はアザレアだよ。
アザレア 奥さん、愛さなくてはだめ。でも、私にもこのベイビーだけはうませてね。ね。
男 勿論だよ。僕、責任もって育てるよ。
アザレア 嬉しい!
男 うん!(胸を抑える)
溶暗
雨の音、赤ん坊の泣き声。
同じベンチ。
一寸やつれたアザレアがベビーカーをおいて歌っている。
アザレア 眠れ安らかにいとしのわがこ。緑こき木陰にゆりかごゆらら。風よ吹くなら、静かに吹け、小鳥ようたうなら、静かにうたえ。緑こき木陰にゆりかごゆらら──(子供の泣声)林太郎、林太郎。お目めさめたのね。ほーら、あなたの大好きな公園よ。あなたは緑が大好きだもの、きれいでしょう。──でも、又、あのヒマラヤ杉が枯れかけてる──つつじも今年は半分しか咲かなかったのよ。皆が言ってるみたいにあの人のパパの会社せいなのかしら。──林太郎君、ママ辛くて辛くてたまらない。あの人は心臓移植の拒否反応で死んだの。でもお葬式にも入れてもらえない。顔一目見せてもらえない──どうして生きていいかわからない──ごめんね。あなたがいるもの。ママ、ホステスでも泥棒でも何でもして生きて行くよ……
窓、三人の男達、二人をかこむ。
入管の先輩 通称アザレアさん? この方が桜グループの若社長のお子さんですね。
アザレア 何ですか。どなたですか?
先輩 会長様ですよ、会長。(会長うなずいてみせる)
会長 (ステッキでアザレアのあごを上げる)おまえか。息子を誘惑したのは。フン。東南アジアのくせに、男の子をうんだのはお手柄だった。残念ながら、嫁の生んだ子はひ弱でな。跡つぎにならん。この子を後継者に育てる。
先輩 これは桜グループの決定なのですよ。
入管の後輩 大丈夫あなたには十二分のことをしてあげます。ほら、二百万、二百万ですよ。
会長、林太郎を抱こうとする
アザレア 止めなさい! 売らない! あたしの子よ!
先輩 困りますな。そうわからなくては。
会長後にいて二人にめくばせ。二人の男アザレアを押える、林太郎をうばい、看護士に渡す。
会長 あの子は嫁の子として入籍させる。お前は、このまま日本から退去してもらう。将来うちの跡つぎがどこの馬の骨かわからん東南アジアの女が生んだ子だとわかっては困るのだ。さっさとくにへ帰って、親に家でも買ってやるんだな。これだけの金があればお前の国では大いばりだろう。
アザレア くに? ここがくにです!
会長 フン(二人の男に)いいな。(アザレアに)これは入国管理事務所の連中だ。私としては息子が可愛がった女を警察に渡したくはなかったのでな。
後輩 あんたを消すか、一生拘置所に入れろという声もあったのですよ。それを会長がかばって国外退去にして下さったのです。お情けを無にしてはいけませんよ。
会長 あとは、たのむ。明日、会社に来なさい。
二人 ハッ。
男と会長は去る。
アザレア (金を投げつけながら)オニ! デーモン!
入管の先輩 勿体ないことする。あきらめるんだな。あんたのビザはとっくに期限切れだ。つまりオーヴァーステイなのだからね。法律で定められているんだから仕方ない。お前がヨーロッパかアメリカならもう少しどうにかなっただろうが。東南アジアじゃ──
アザレア 待って。息が苦しい。吐きたい。吐かせて下さい。
入管の後輩 いいでしょう。気持ちわかりますよ。
先輩 早くするんだぞ。
アザレア茂みの陰にとびこみ、逃げる。
先輩 おい、おい! 出てこい! 畜生!
二人探す
後輩 まずいですよ。僕たちが逃がしたことがわかりますよ。先輩だって責任とわれますよ。あの会長、僕らのクビなんか簡単に──
先輩 まいったな。もう一度、しらみつぶしに探そう──
後輩 先輩、このまま帰ってあの女を送還したって書類作りましょうよ。としの近い女をみつけて名を名乗らせて、金つかませりゃ大丈夫ですよ。だって馬鹿正直に報告したってまずいだけですよ。書類さえ作っておけばわかりっこないですよ。
先輩 そうするか──よし。
二人さる
アザレアでる
アザレア 強制送還なんかされるもんか、へばりついてもこの国にいてやる。私の子供を見守ってやる。悪魔の日本人! お金しか持ってないじゃないか! こんな公園のつつじの木も枯れれてしまえ! 枯れてしまえ!
(声──かげのエコーのように)枯れて、枯れて、枯れて、枯れてしまえ──
中央公園。夜。ベンチ。
枯れて棒のように突っ立つ木々。
奥にはカニみたいな二本角のビルと、巨大な桜グループセンタービルの灯がきらめいているがこここは暗い。ガラスのわれた街灯が一つ。
かすかな口笛。突然四方のやみから湧き出たように数人の若者が足音もなくかけよってくる。
*
*
*
*
*
聖都市壊滅幻想
日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ より
三條三輪
(さんじょうみわ)
劇作家・演出家・俳優
基本情報
日時:二〇二一年十月十三日
場所:虹企画シュラ
インタビュアー
神山彰(明治大学)
日比野啓(成蹊大学)
鈴木理映子(編集者/ライター)
監修
跡見梵・片山幹生(早稲田大学)
編集・構成
鈴木理映子
イントロダクション
一九二五年(大正十四)生まれの三條三輪氏は、日本では(そしておそらく世界でも)現役最高齢の女優ではないだろうか。築地小劇場を開設し、戦前の新劇運動の中心人物の一人だった土方与志に演出をつけてもらったという存命の俳優は三條氏以外にはいない。九十六歳になる現在でもご自身の演出する舞台に出て溌剌と演じられるだけでなく、耳鼻科のお医者さまとして患者を診察されている。その壮健さだけでも圧倒されるが、今回詳しくお話を伺い、記憶の鮮明さにも驚かされた。
三條氏は虹企画/ぐるうぷ・しゆらという劇団を跡見梵氏とともに率いて今年二〇二二年に五十周年を迎える(創立時は「虹の会」名義)が、それ以前には三木順一(のち本名の色川大吉名義で歴史学者として活躍する)らが結成し、下村正夫・瓜生忠夫を指導者としてむかえた新演劇研究所に一九五二年の創立時から参加していた。敗戦後、下村正夫は共産党の指示に従って第一次民藝の乗っ取りを画策し、その解散(一九四九年)に導いたとして、宇野重吉や久保栄ら当時の座員から厳しい非難を浴びせられているが(『新劇・愉し哀し 宇野重吉えっせい』など)、三條氏が語る下村像は全く異なる。下村は、芸術至上主義ともいえる態度でスタニスラフスキー・システムを所員たちに教え、慕われていたという。
このこと一つをとっても、三條氏の証言が日本近現代演劇史を学ぶ者にとって貴重なものであることがわかるが、今回の聞き書きで知見を得られたのはそれだけではない。そもそも、野間宏の長編小説を職場演劇出身の鈴木政男が脚色し、下村が演出した第三回公演『真空地帯』(一九五三年二月、飛行館)が当時大変な話題を読んだにもかかわらず、また杉浦直樹、小松方正、内田良平ら錚々たる俳優たちが参加していたにもかかわらず、新演劇研究所のことはあまりよく知られていない。小松方正がその自伝に細々と書いていたぐらいで、現在もっぱら映画評論家として名を残している瓜生忠夫がどんなことを考えて当時新演劇研究所に加わり、そして去っていったか、また一九五八年二月にいったん活動を停止し、五九年四月に研究所体制をあらためて劇団新演として再出発したのはどういう事情があったからかなど、今回ようやくその概要が掴めたことは多い。
同様に、三條氏が新演劇研究所を離れたのちに小林和樹らと一九五八年に結成した芸術劇場についての証言も興味深い。すまけいも当時所属していた芸術劇場は、今ではすっかり忘れ去られた感があるが、下村正夫が八田元夫と劇団東演を発足させ、吉沢京夫が吉沢演劇塾を作るなど、新演劇研究所の人々が解散後に見せた動きの一つとして見逃せないものだ。一九六二、三年ごろから三大劇団をはじめ新劇団の盤石と思われていた体制に綻びが見え始め、やがてはアングラ演劇各劇団の結成につながる大激動の時代を迎えるわけだが、すでにこの時期に新劇のなかでも新しい展開が生まれていたことがよくわかる。
三條氏の生きてこられた戦中・戦後の時代は、新劇が現在よりずっと社会的に認知されていた時代であり、新劇界以外の文化人との交流関係も伺えて興味深かった。とりわけ音楽家・林光やその父親で俳優座の顧問医を務めた林義雄、合唱指導の石本美佐保らが三條氏の近くにいたこと、さらには劇団四季結成以前の浅利慶太が、姉の陽子とともに劇座の代々木の稽古場に現れていたことなど、時代の空気を感じさせる逸話を聞いていると、時間が経つのを忘れるほどだった。三条氏のファンとして、今回仲介の労をとってくださった片山幹生氏にも感謝の意を表したい。(日比野啓)
ご両親のこと
日比野 まずは一気に時計の針を戻しまして幼いころのことからお聞きしたいと考えております。
三條 私はもうだいぶ年ですから。ご存知でしょう、年齢は。
日比野 いえ、正確には存じ上げていないのですが、ご婦人に年齢を聞くのも、と遠慮しておりました。
三條 構いませんよ。おととい誕生日で九十六歳になりました。大正十四(一九二五)年十月九日生まれです。
日比野 それはおめでとうございます。
三條 いえ、お恥ずかしいことでございます。なぜか死なないんですよ、ちっとも。もう、昔の仲間は誰もいなくなってしまいました。崖の上で風に吹かれている感じです。こちら、劇団の代表の跡見梵です。私の付き人のようなこともしてもらっています。
跡見 芸術劇場では、三條と小林和樹と一緒に、菰岡喜一郎という本名で、制作をしながらスタニスラフスキー・システムをやっておりました。三條の弟子ということで資料集めやらなにやらをしております。
日比野 よろしくお願いいたします。では最初に、ご両親の影響についてお聞きしたいと思います。お母様は東京女子医大の大先輩でいらしたそうですね。
三條 そうです。母は医者で、父は「若人社」という、わりと斬新的な若い人たちの宗教の団体におりまして、たまたま野間清治さんの贔屓をいただくことがあり、講談社の揺籃期に総務部長をしておりました。
日比野 若人社?
三條 ええ。そこが宗教的な若者の団体だったらしいんです。それで、どこでどうなったのかはよく分かりませんが、何しろ野間清治さんにだいぶかわいがられまして。清治さんが引かれてからは『報国』という広報誌の編集長をしておりました。
日比野 芸術上はお父さまの影響が強かったということですか。
三條 そうですね。父と母は、その当時としては誠におかしな連中で、六十年間別姓のままで夫婦生活を続けておりました。それで何とも思っていない、二人とも独立精神旺盛で。ですから私は戦前までは庶子だったんですよね。それを知った時はびっくりしました、私。もらいっ子かと思った。戦後、そんなのはなくなりましたけれども。
日比野 ちなみに一人っ子でいらっしゃるんですか。
三條 妹が一人いまして、存命です。
日比野 ご長命の家系なんですね。
三條 父が九十七歳だったかな、母が九十三歳。そういうことなんですけど、なんだか死なないですねえ。
日比野 それで幼いころに『どん底』を観たということをお書きになっていました。
三條 父が当時、新協なんかの新劇団のものすごいファンでしたので。今はないですけど、当時は「インテリ」という層がございまして、この人たちと学生とがそういうものを応援していました。当時の新劇というのは、非常に官憲から憎まれ、迫害を受けていたわけですね。それに父が非常に感動しまして、今思うと、芝居を観る時にはいつも、母に対して私をダシにしていたんだと思いますけれど、一緒に連れていってもらったのが六歳の時です。新協劇団か、あるいは、違う劇団だったのかもしれませんが、築地小劇場だったと思います。壁なんかも、ちゃんとモルタルで塗ってはいなくて、ブリキのままだったように思います。それで、ワシリーサに惹かれてしまいまして。なんだかわからないんですけど、無我夢中で見ているうちに、すごくよく思えたんです。
日比野 一九三一年でしょうか。
三條 そのくらいですかね。なんていう劇団かどこだったのかはよくわかりませんけれど、それを観たこと、それで「ああいうのをやりたい」と思ったのは、はっきり残っています。母は小児科医で、私はその後、熱を出したりしましたので、父はずいぶん怒られたらしいです。「そんなものを見せるからだ」って。でも私はその時から、絶対に芝居をしたくなりまして。父は昔から熱血でおしゃれさんで、リベラルな人でしたから、その影響もあったんですね。たとえば父は、私に絶対に足を折ってきちんと座るということをさせませんでした。「足が曲がるから、絶対に座っちゃいけない」と。畳の生活だったんですが、正座をすると怒られるので、いつも、あぐらをかいていました。
日比野 ご両親は東京の方ですか。
三條 父は岡山で母は福井なんです。二人とも東京へ出て大恋愛をしまして。母は怒られて東京女子医専の卒業を一年遅らせられたんです。そのぐらい、当時としては激しい恋愛だったらしいです。それからずっと別姓で生活していました。
日比野 当時のインテリの気概を見る思いです。歌舞伎座や東京宝塚劇場にも行かれましたか。
三條 父は歌舞伎も好きでしたから、連れていかれました。宝塚にも一回連れていかれて、好きになりまして、夢中で観るようになりました。男役の方ってきれいだと思って。後で、本当の男の方と会う時に困ったことがあります(笑)。私はレビューが好きで、特に戦後になってからは自分の力で観られますから、よく観に行きました。歌舞伎も行きました。昔、四階に立見席がありまして、安いもんですから、学生時代はよくそれを目当てにして行きました。そこから花道の見える席は四つしかないんです。そこを取るためにいちばん先に行って、男の方と一緒に必死になって四階まで駆け上がりました。
日比野 歌舞伎俳優で印象に残っている方はいますか。
三條 そうですね。橘屋さんは綺麗でした。あれは何世でしたっけ。
日比野 十五世の羽左衛門ですね。
三條 あの方は大好きでした。それから播磨屋さん。
日比野 初世の吉右衛門ですね。
三條 そうです。本当にお上手で、みんなが泣いちゃうくらい。大好きでよく見に行きました。
日比野 宝塚の女優さんで覚えてらっしゃる方はいますか。
三條 戦前ですと、宇知川朝子さんがいらっしゃいました。愛国の歌か軍歌を歌っていましたね。
日比野 戦争が始まったのは大学に入られてからですか。
三條 いえ、第三高女というところに行っていた時です。これがまた大変な学校で。学校を出ましたら東大出身の方以外と結婚すると馬鹿にされるようなところでした。宮様にお会いする時にはどうすればいいかというような作法を教えていて、お芝居なんて汚い、下品なことはとんでもないという学校です。それでも英語の先生だけが芝居をさせてくれたんです。英語劇を。体操の先生に見つかると殴られるので、本当に秘密でした。この学校で、貴族的な言葉というのも勉強しました。たとえば「おむすび」は「おにぎり」と言わなくてはいけなくて、間違えると「あの方、おむすびとおっしゃったわ」といじめられるというような場所でした。
日比野 お仲間というか、一緒に演劇をやりたいという人がいたわけですよね。
三條 第三高女のころはあまりなかったですね。みなさんいいおうちの方で、英語劇ならばということでやっていましたから、親友は別にいましたけど、芝居をする仲間というような人はいませんでした。
神山 第三高女は都立になってからだと何高校ですか。
三條 都立第三高校で今は駒場高校です。当時は麻布にございまして、坂を降りていくところにありました。空襲で焼けて、駒場に移ったんです。
神山 お宅は[品川区の]御殿山でしたか。
三條 そうです。
神山 そうしますと、第三高女から女子医大に進まれて、戦時中に疎開はされましたか。
三條 女子医大が疎開しまして、山梨に二年ほどおりました。食べるものがなくて、みんなでどこかのうちのザクロを盗ったり。大変苦労しました。山梨には日本住血吸虫という寄生虫がいまして、予科の時には子供たちの検便をやってこれを見つけるということをさせられました。
日比野 女子医大では演劇はされなかったんですか。
三條 ちょっとやりました。女子医大は芝居をしても大丈夫でしたから。ただ、あんまりいい芝居ではなかったですね。何しろ勉強の方が忙しくて。
日比野 そうすると本格的に演劇活動を始められたのは就職してからですか。
三條 そうです。それに、あのころの世相はおわかりですか。こんなふうに集まって話していたらもう、検挙されてしまうんです。三人集まったら検挙です。大変でした。父は髪の毛を長くしていたことで「あいつは社会主義者だ」と告発されたことがあります。それで警察が来まして。刑事が何もいわないでいきなり戸を開けてドカドカっと入ってきて、父の書斎にあがって手紙を片っぱしから開けて点検するんです。何もかも全部、出しっぱなしで。父は幸いに講談社の『報国』をやっていたものですから、なんとか助かったんです。こういうことは周りの人が密告する、そういう時代ですから、怖かったですね。母は家で診療していましたからそこへ来て、情報交換したりする人がいました。それで父は目をつけたられたりしていたんです。「女房を働かせている」というので、町内会の人に悪口を言われてもいました。ただ父はまったく、母が「独立したい」といえば、独立することをなんとも思っていませんでした。母は経済的に独立したいという人で、人の戸籍に入るのは絶対に嫌だと。それで二人で六十年間別姓のままで、子供をつくって暮らしました。でも、父が亡くなる前に、「税金の関係があるので、頼むから」と、母を拝み奉って、戸籍に入ってもらいました。それでなんとか税金は半分になりましたけど。母は泣いていましたね。
日比野 そういう社会の不条理に対して憤る気持ちというのは、お母様もお持ちだったんですね。
三條 母は社会教育委員というのをやっていましたが、目をつけられるというようなことはなかったようです。女というのもあったんだと思います。ですから私は、二・二六の時にはまだ子供でしたけど、なんでも革命の方がいいんだ、すごいんだと思っちゃっていたんです。父から怒られました。「あの革命は違うんだ」って(笑)。NHKラジオのアナウンサーが必死な声で放送していましたね。[銃]弾の音のする方の壁にはいかないで、布団をそこに重ねて反対側にいなさいということを一所懸命言ってました。雪がしんしんと降るなかで、遠くで弾の音がしていました。
新演劇研究所時代
日比野 大学ご卒業後は済生会病院にお勤めになりました。
三條 初めは産婦人科でした。それで赤ちゃんをとりあげたり、おろしたりということをしているうちにどうしても芝居がやりたくなりまして。だけど、医者は何年かやらないと一人前にはなりませんから、病院に入って勉強しなくちゃならない。それで夜、芝居のできるところを探しましたら、たまたま、新演劇研究所が夜やってくれていました。働く人たちのために夜やってくれている、それに土方与志が講師だと書いてあったので、それがいちばんの魅力で受験しました。都立第三高女のとき、ある校長先生が、土方与志という人が悪い思想にかぶれてパリへ逃げていって、お母さんが追っていってもとうとう帰らなかった、そういう悪い人になっちゃいけませんという話をしていて。その時からずっと土方与志に憧れていたんです。ですから、その、新演劇研究所というのがどういうものかということは知りませんでした。
日比野 新演劇研究所の創立は一九五一年七月ですが、そこにお入りになったのはいつですか。
三條 新演劇研究所は下村正夫先生を中心につくられ、当時新協劇団の研究生であった杉浦直樹さんや大蔵省勤務でサークル活動として演劇をやっていらした小松方正さんたちと一緒に、私はそこの一期の研究生になりました。「スタニスラフスキーを本で読んだか」というご質問も事前にいただきましたけれど、本を読むどころか、下村さんには、一から実践させられ、十一年間、スタニスラフスキー・システムを叩き込まれました。内田良平さん、小林和樹さんも劇団員でしたね。寺島幹夫さん、吉沢京夫さんも、後からいらっしゃいました。
日比野 のちに色川大吉という本名で民衆史の領域を開拓した三木順一が、当時新協劇団演出部にいて、下村正夫や土方与志、瓜生忠夫に声をかけたと聞いています。
三條 私はその当時、三木さんとしか知りませんでした。その三木さんに私は、入った時のパントマイムを大変に買っていただきまして、ありがたかったです。でも、とてもえらい方だと聞いていまして、ほかの人たちも大変に尊敬していらしたので、遠い方でした。常に下村さんのそばにいらして。要するに、生徒を育成するのは下村さんと他の人ですが、新演の進む道とかそういうことは全部、三木さんが下村さんと相談してつくっていかれたんです。
日比野 三木順一が直接指導することはなかった?
三條 試験の時にはいらっしゃって、いろいろ先生にも進言なさっていたみたいです。ただ、とても偉い人ですから、私なんかは仰ぎ見るだけで。新演劇研究所というのは、左翼でしたら、その進む道もほとんどは三木さんがつけられたんじゃないでしょうか。私、初めは全然知らなくて後になってどういう方か知りました。三木、三木って、とても尊敬されていました。
神山 当時、新演劇研究所は代々木で活動していらしたんですね。
三條 はい。共産党のそばでいろいろと大変でした。共産党はもう合法だったと思いますが、やっぱりみんなでビラを撒いていまして、もうなんのビラだったかもわかりませんが、捕まった方もいます。みんな「どこだかの署に入った」なんて威張っていましたから。土方与志さんも何回か入っていらしたので、官憲に対する憎しみをすごくお持ちでした。ちょっと官憲に白状したというような人がいたら、その人を役から降ろせ、と言ったくらいです。ただ、私はかわいがっていただきました。幸いなことに、私の初舞台は土方与志先生の演出だったんです。何をしても「いいよ、いいよ」とおっしゃって。お顔が、東映系の俳優で東千代之介っていますね。あの方をもっと上品にしたような顔をしていらして。とても気さくな方でしたけど。山本安英さんによれば、遊びに行くたびに、先生のおうちの食器だとかでいいものが一つずつなくなっていたそうです。
日比野 それは戦前のお話ですね。戦後も切り売りされていたんですか。
三條 そうなんですって。かなりお金を出していらしたんじゃないかと思います。
日比野 土方与志の演出というのは、どんな感じだったんですか。ダメは出さない?
三條 たまには出しますよ。ダメを出すときついんですけどね。私はほとんど出されなくて、かわいがっていただきました。「どんな女優になるんだろうね」と言われて。それで最後に握手をしていただいたりして。震えました。「私、新劇と握手しているんだ」と思って。それが『扇風機』っていう、私の初舞台です。悪い課長さんがいて、それをみんなでやっつけるという話で、私は課長のおめかけさんで、あまりいい役じゃありませんでした。職場演劇のような、職場のみんなが団結して勝ったという話なんです。下村さんは怒りん坊で、すぐ叱られましたけど、土方先生は、初めてだからしょうがないと思われたんでしょうけど、とても優しかったですね。
日比野 特にスタニスラフスキーということもおっしゃってはいない?
三條 はい。そうじゃなかったですね。
日比野 『扇風機』というのはどなたがお書きになったんでしょうか。
三條 職場作家の方が書いたんです。鈴木政男さんかもしれません。
日比野 俳優座、民藝もそうですが、やはり職場演劇、自立演劇と結びついていこうという動きがあったんですね。
三條 そうですね。下村さんと鈴木さんは、大変親友でしたから、職場演劇の方へ観に行ったり、メークのお手伝いしたりはしました。
神山 八田元夫とはあまり直接の関係はないですか。
三條 八田さんは教授で来てくださいまして、授業は受けました。演出を受けたことはございません。
神山 八田さんって、写真で見るといかにもおっかなそうな、豪快な感じがしますが、実際はどんな印象でしたか。
三條 ちょっと面白くて、そんなに怖くはなかったですが、手が出るのがわりと早い方だったのかな。
神山 新演劇研究所には、瓜生忠夫さんもいらっしゃいましたね。
三條 瓜生先生は、わりとおっかなくて。下村さんとはうまくやっていらっしゃいましたけど。
神山 私どもの世代ですと瓜生さんのことは、映画でしか出てこないんですよね。最初から映画評論家だとばっかり思ってましたけど。実際に演技の指導はされましたか。
三條 ええ。私が入った時は下村さんと瓜生さんと二人で演技の指導をしていらっしゃいました。私も一つ、芝居で瓜生さんの演出を受けておりました。とても優しい方で。
日比野 瓜生忠夫が演劇から離れて、映画の世界に向かった理由とかきっかけみたいなのはご存じではないですか。
三條 私はよく知りません。ただ、下村さんと何かちょっとあったのかもしれません、演技的なことで。二人で演出をいろいろとやっていらっしゃいましたけれども、どこでどうなったのか分かりませんが、ある時から瓜生先生の姿が見えなくなっちゃった。
日比野 それは新演が解散する前からですよね。
三條 そうです。新演の解散はだいぶ後です。
日比野 宇野重吉の自伝[『新劇・愉し哀し 宇野重吉えっせい』]を読むと、下村正夫という人は党派的な人で、政治的な因業を生み出しては人と別れていくというような書かれ方もしています。もちろん宇野さんにとっては、第一次民藝を壊されたというような思いがあるわけですから、客観的ではないかもしれません。
三條 そうでしょうね。下村さんと瓜生先生と三木さんといらっしゃいましたが、生徒の信頼は下村さんに集まってしまっていました。瓜生先生は志が高くて、わりと高踏的なことをパパパッとお出しになるんです。下村さんはスタニスラフスキー・システムで、そこをどういうふうに歩けとか、具体的に指導してくださるので、研究生にとってはその方がよくわかったんです。『真空地帯』[一九五三年一月、飛行館ホール]という作品で大阪に行きまして、その後からいらっしゃらなくなりました。下村さんともそんなに仲が悪くはなかったんですが。
日比野 三條さんはそのお芝居には出演されていましたか。
三條 いえ、私はまだ研究生でした。女は出さないと下村さんに言われて。[『真空地帯』には]女の人は一人も出ませんでした。私は衣装係で、[臨時]第三陸軍病院[旧名。国立相模原病院]に行って衣装を借りました。そのころは兵隊さんの服がまだいっぱいありましたから。それを皆さんに配って着てもらいました。私はトラックが大好きで、いつも上乗りをしていました。
神山 これは鈴木政男の演出ですか。
三條 いえ、台本をお作りになったのが鈴木政男さんで、演出は下村さんです。
神山 舞台監督をやった大木靖さんは覚えていらっしゃいますか。
三條 覚えています。俳優座の大木ちゃんですね。
神山 私は国立劇場の制作室に二十年ぐらいいたんですが、その時に大木靖さんがちょうど舞台技術部長で時々話を聞きましたけど、「あのころはとにかく全部感情移入だけだったなあ」って、言っていましたよ。
三條 大木ちゃんと私は本当に仲が良くて。最初の『真空地帯』が、どういうわけでそうだったのかわからないんですが、梅田コマ劇場のこけら落としだったんですね。大木ちゃんが舞台監督でした。大木ちゃんとはしょっちゅう一緒にやりました。胃が悪かったのでお薬をあげてやってもいました。
日比野 色川さんが病気もあって、もともと現場にはタッチされてなかったのが、さらにちょっと引いた形になったことで、瓜生派と下村派が対立したという話もありますが。
三條 いや、瓜生派っていなかったと思います。みんな下村さんに傾倒していましたから。ただ、いつの間にか瓜生さんがいらっしゃらなくなっちゃったということしか分かりません。
日比野 下村さんは当時、共産党の指示を受けていたようなふしはありましたか。
三條 それもないですね。下村さん自身は芸術的な問題に行きたいと言っていました。でも、細胞が劇団にあったのは確かです。その人たちが三木さんを中心に何かやっていたのは事実です。
日比野 じゃあ、下村さんはむしろ、そういうところからは一歩引いていらしたんですね。
三條 うちがいちばん左で、ほかの劇団、たとえばぶどうの会ですとか、[俳優座・文学座・民藝の]三大劇団ですね、その人たちを守らなきゃいけないみたいなことは言っていましたけどね。最左翼だから、ということは。
日比野 なるほど、私たちが今資料から読む下村正夫像とは違う姿ですね。
三條 そうですか。どういうことなんでしょう。画策するとか、そういうことは全然、私は知りませんでした。
日比野 『真空地帯』で毎日演劇賞をもらって、新演が社会的に大きく認知されるようになったんですが、その前後で劇団内の空気は変わりましたか。
三條 そういうことはなかったですね。ただ、必死になって、ひたすらスタニスラフスキー・システムを実践していたという気がします。その当時地震研究で有名だった東大の教授・石本巳四雄(みしお)さんの奥様、石本美佐保さんが合唱指導をしてくださって、ずいぶん歌も練習いたしました。「朝鮮の歌声」というのをやりまして。それはご存知でいらっしゃいますか。ちょうど朝鮮戦争があったころで、朝鮮の人たちの詩と歌を、詩集が翻訳されていましたから、それを読んで、歌は林光さんにつけていただいて、芝居の後でやるということを何回かやりました。
芸能人診療所のころ
日比野 その林光さんのお名前が出たので、そのお父様の林義雄さんについてお話をうかがいたいと思います。
三條 林洋子って林光さんの最初の奥さんですね。その方がちょうど私と同い年ぐらいで、研究生だったんです。二人とも劇団員になりましたけど。その方の紹介で、[一九五二年ごろ?のことでしょうか]林義雄先生にお会いしました。私は初めに産婦人科をやっていたんですが、たいてい夜なんですよね、赤ちゃんが生まれるのは。それで赤ちゃんはすぐ死ぬことも多くて、どこか死と遠い科はないかなと思ったら、林洋子から「私のおしゅうとさんが耳鼻咽喉科で俳優座の方の顧問をしてる」と聞いて、紹介してもらいました。一応、医者として舞台発声を勉強するということで、紹介してもらって、耳鼻咽喉科に入れていただきました。
日比野 林洋子さんは俳優座の養成所を出られているんですね。
三條 そうです。卒業してからちょっとして試験を受けて入ってきました。
三條 林洋子とはずいぶん仲良くさせてもらいました。光さんには、後に芸術劇場をつくりました時に作曲をずいぶんしていただきました。新演でも光さんがいろいろと作曲してくださったんだと思います。
神山 林義雄先生は有楽町にも確か診療所がありましたね。
三條 ええ。有楽町に診療所を一つつくっていらっしゃいました。そこで私は教えていただいたんです。芸能人診療所でした。そこでいろいろな方と私もお会いして。
日比野 名前も芸能人診療所?
三條 そうです。当時、芸能人の保険がありましたので。芸能人の方々がいらっしゃいまして。翁家さん馬さんが患者さんでした。それから、市来崎のり子さんは先生が、林先生がずっと喉を診ていらっしゃいました。
日比野 林義雄先生と三條さんとで診療されていたんですか。
三條 私の上の先生がお二人いらっしゃいました。男の先生が。林先生が全部「これをやりなさい」と割り振ってくださったんです。私も初めはただ見ているだけでしたけど、そのうちに林先生にうんと鍛えられて。とても親切にしていただきましたし、舞台発声も教えていただきました。
神山 林先生は戦前から芸能人というか、芸人を診ていらしたんですか。
三條 そうらしいですね。俳優座さんの顧問になられて。
神山 以前読んだ林先生の本では、六代目菊五郎の声帯のことを書かれていて。
三條 ええ。私も歌舞伎座に連れていかれまして、六代目さんじゃないかな、あの方は。あとは宝塚の新珠三千代さんとか、そういう方の喉をやりました。みんな往診でしたので、私は一緒に行ったり。[七代目翁家]さん馬[のちの八代目桂文治]さんは面白い方でしてね。いろいろな挿話を教えてくださいました。恋人と一緒に外を歩いていて、当時はそれはいけないことでしたから、警察に捕まって怒られて。警察署長に「結婚する」と言ったら、「じゃあ、今しろ」と言われて、署長の媒酌で結婚したという。
日比野 本当ですか、それは。
三條 そうなんです。いつも「俺、署長の媒酌で結婚したんだよ」と言っていました。
神山 でも、林先生は具体的には「あの役者さんの声はどう」とかいう話はされなかったですか。その時代の歌舞伎だと[三世市川]壽海ね。海老蔵がすごく美声だったという。
三條 壽海はもうお亡くなりになっていましたから。私の時は勘三郎さん。そのお子さんの勘九郎さんを連れていらして。あの方はどうしようもないいたずらっ子で、靴のままで椅子の上にあがるので、みんなで追いかけ回して、大騒ぎでしたよ。しょうがない子でした(笑)。
神山 林先生のご自宅は原宿でしたか。
三條 そうです。原宿のいちばん向こうのなんという道路でしたか、東郷神社のある角に広いうちがあって、バラをいっぱいつくっていらっしゃいました。
神山 林光さんの本を読みますと、原宿のお宅で日曜研究会というのをやって、小松方正なんかが来ていたとあるんですが、それは覚えていらっしゃいますか。
三條 ええ。声の出し方や何かを勉強していたらしいです。私は林先生が、学会に出す映画をお作りになるというので、その時に行ったりしました。バラを見によく伺ってもいましたね。今は全然ですが、当時はあのあたりはお屋敷街でした。
スタニスラフスキーと三人の指導者
日比野 一九五五年六月に新演劇研究所公演第七回として鈴木政夫の『サークルものがたり』(飛行館ホール)をやって、一九五六年六月に俳優座劇場で『どん底』があります。これが最初にワシリーサ役ができたという時ですか。
三條 いえ、それは俳優座劇場での『どん底』ですけれども、『どん底』はその前からずっとやっていました。その四年、五年ぐらい前からかな。それから、九州から東北まで、日本中を持って周りました。
日比野 じゃあ、自伝[「女優と医師との二足のワラジ」]にお書きになっていたワシリーサ役ができたというのは?
三條 ですから新演劇研究所でやると聞いた最初の時から先生に売り込んでいまして。でも、先生は意地悪して「だめだ」と言ってたんです。でも配役発表の当日につけていただいて。本当に大変でした。
日比野 下村さんに演技をやり過ぎる、と怒られたとお書きになっていましたね。基本的には、それぞれの俳優がスタニスラフスキー・システムにしたがってやったうえで、下村さんが細かく注文をつけるということですか。
三條 ある程度自由にやらせておいて、いろいろなことをおっしゃっていました。
日比野 たとえばサブテキストみたいなことは自分で考えて?
三條 最初にみんなで分析というのをやりまして、そこでサブテキストのことは話しましたけれど、あんまり細かいことはなかったです。
日比野 瓜生さん、三木さんはどうでしたか。
三條 瓜生さんはほとんど何もおっしゃらない方でした。三木さんは育成の方には来なかったです。ただしょっちゅう下村さんと話をしていて。みんな三木さんを尊敬していましたから、三木さんの言う通りに、ということはありました。演技のことは、下村さんには言っていらしたみたいですけど、直接の指導もされなかったし、演出もあまりしていなかったです。
神山 メーキャップについてはどうですか。赤毛ものなんかは、今よりも重要視されていたでしょう。どなたが指導をされたんですか。
三條 それは先輩の俳優さんたちの指導でした。それで、あんまりおかしいと下村さんが笑って、そうおっしゃってました。私は今でもやっぱり、メークはしないとダメですね。
神山 あのころはメーキャップと、「表情術」という言葉は使われましたか。
三條 舞台の場合は、体で出さなきゃいけないところで、あまり表情を出さない方がいいので、顔はわりと変わらないですね。
日比野 当時、スタニスラフスキーを学ぶ場合は、例えば千田是也の翻訳、『近代俳優術』とか。
三條 千田さんの『俳優術』はずいぶんテキストにいたしました。
日比野 そうですか。じゃあ、それを例えば下村さんはどういうふうに教えられるんですか。
三條 いや、その書いてあるところを一つずつ自分で読んで、実践するわけです。それでそれを実践するやり方は下村さんが指導していらっしゃいました。
日比野 当時やっぱり千田是也の言うスタニスラフスキーと下村正夫の言うスタニスラフスキーは違っていた?
三條 それはよく分かりませんですけど。
日比野 特に千田是也の悪口を俳優たちの前で言うとかそういうことはなく。
三條 そんなことはまったくなかったです。ただ私は『どん底』の時にワシリーサで、すらっと立とうと思って、かっこいいのが好きで、立とうと思って。観にいらしていた千田さんに怒られたことはあります。あんな立ち方は貴族の立ち方だと怒られて。だけどあとは特に千田さんとどうこうということはなかったですね。
戦後新劇の興隆
神山 『真空地帯』は最初、飛行館でなさって、大阪に持っていったわけですか。飛行館とかと梅田コマ劇場は大きさがずいぶん違いますでしょう。そういう違和感はなかったですか。
三條 それはなかったですけどね。
神山 そうですか。飛行館は私でも知らないんですけれども、建物はあるのは知っていますけれども、飛行館というのはわりと小さい感じでしょう。そうでもないんですか。
三條 飛行館も結構舞台は大きかったですね。舞台の端から端まで雑巾掛けをしましたので、かなり広かったように私には思えました。
日比野 新演は、俳優座劇場を比較的多く使っていますけど、それはやはり千田是也さんとの関係ですか。
三條 それはよくわかりません。ただ、俳優座劇場は、当時としては一番の劇場、ということがありましたから、それで使ったんじゃないかと思います。
神山 [一九八〇年九月改築前の]俳優座劇場は傾斜がすごかったですよね。役者さんとしてはやりやすい劇場でしたか。
三條 一階は大変にフラットで、そこからだと役者がよく見えるんですよ。一階は素晴らしかったんです。二階は全然でしたけど。
神山 三階なんて見下ろすと怖かったです。二階に喫茶室があったでしょう。
三條 途中でなくなってしまって。あれはよかったですね。本当に、昔の新劇のために建てられた劇場でした。
神山 新劇ですと、戦後すぐから一九五〇年代前半くらいまでは三越劇場もよく使われていましたね。新演劇研究所とはちょっと合わない感じがしますけども。
三條 ぶどうの会はよく使っていらっしゃいましたね。ぶどうの会とは、とても仲良くして、しょっちゅう交歓会したり、野球の試合なんかもやっていました。
日比野 ほかの劇団とのお付き合いについてもお聞きしたいんですが、民藝とはお付き合いはありましたか。
三條 いえ、ありませんでした。
日比野 千田是也さんは観に来たり……。
三條 ええ。一応ご覧になってくださったらしいんですけど、そんなに親しくはしてなかったですね。
日比野 文学座は。
三條 文学座はいちばんの右でしたし、「芸術至上主義」ということを言っていましたから、あんまり合わなかったと思います。
日比野 まだ新協は残っていましたよね。
三條 どうでしたか……よく覚えていません。
神山 新演劇研究所が始まったころ、代々木のけいこ場と同じビルに、[舞台芸術学院を一期生として卒業したばかりの]いずみたくのいた劇座[のち東京喜劇座と合流]とかほかの小さい劇団もあったというようなことを聞きました。
跡見 [一九五三年に劇団四季を結成する]浅利慶太さんがいらっしゃいました。
三條 そうです。浅利さんのお姉さん[浅利陽子]が主役で『乞食(かんじん)の歌』[劇座・一九五一年八月]というのをやっていらっしゃいました。
神山 『乞食の歌』は当時劇座の一員で、後に前進座に文芸部員として入座する津上忠の作品ですが、前進座はもう完全に吉祥寺にいたので、あまり関係ないですか。真山美保さんの新制作座というのもありましたが、ああいうものは当時のイメージとしては「新劇」ですか。
三條 前進座はまったく関係なかったです。新劇は歌舞伎を排除したものということですし、左翼的な感じがありました。前進座はわりと左翼的でしたが、芝居の形態はまったく違ったと思います。
神山 当時は前進座も翻訳劇をやっていましたが、やはり別物という感じでしたか。
三條 そうですね。少しは似た感じが芸術的にはあまり関係はなかったです。個人的な交流はあったのかもしれませんが。
日比野 三條さんご自身は、前進座や新制作座のお芝居を観にいくことはありましたか。
三條 あんまりなかったですね。新劇合同公演とかそういうのは見ましたけれども。観に行く暇がなかったですね。
神山 それはそうですよね。お医者さんでもいらっしゃるし。
日比野 ちょっと毛色が違うところとして、文化座とか、俳優座のスタジオ劇団の新人会や仲間はどうでしょう。
三條 そういう新しいところはほとんど見られなかったですね。劇団同士の交流もあまりなくて、当時はほかの劇団へは行っちゃいけないみたいな雰囲気もありましたし。今はみんな、自由にあちこち行っていますけれど。
神山 青俳とかその辺は。
三條 青俳は、下村さんが演出していらしたんですよ。それで青俳だけは観に行きました。
神山 青俳は、木村功もいましたね。
三條 ええ。でもお話ししたのは岡田英次さんとでした。
日比野 一九五七年に、有馬稲子さんの主演のテレビドラマ『私は告発します』に出演された話も書いておられます。当時の新聞に、有馬は新演劇研究所の研究生になったというようなことが書いてありますが……。
三條 そんなことはなかったですね。有馬さんは全然、私どもはその番組でご一緒しただけで。当時は、ずいぶん、新劇の人がテレビに出たんです。使える俳優さんがあんまりいませんでしたから。
神山 麹町の日本テレビですか。もちろん、生放送の時代ですよね。
三條 大変でしたね。ビデオがございませんから、スタジオからスタジオへ走って歩いて。それでテレビはもうこりごりになっちゃいました。
神山 そのころはまだ三田の済生会にいらっしゃった?
三條 そうですね。三田の済生会中央病院で産婦人科をやっていました。
(さんじょうみわ)
劇作家・演出家・俳優
基本情報
日時:二〇二一年十月十三日
場所:虹企画シュラ
インタビュアー
神山彰(明治大学)
日比野啓(成蹊大学)
鈴木理映子(編集者/ライター)
監修
跡見梵・片山幹生(早稲田大学)
編集・構成
鈴木理映子
イントロダクション
一九二五年(大正十四)生まれの三條三輪氏は、日本では(そしておそらく世界でも)現役最高齢の女優ではないだろうか。築地小劇場を開設し、戦前の新劇運動の中心人物の一人だった土方与志に演出をつけてもらったという存命の俳優は三條氏以外にはいない。九十六歳になる現在でもご自身の演出する舞台に出て溌剌と演じられるだけでなく、耳鼻科のお医者さまとして患者を診察されている。その壮健さだけでも圧倒されるが、今回詳しくお話を伺い、記憶の鮮明さにも驚かされた。
三條氏は虹企画/ぐるうぷ・しゆらという劇団を跡見梵氏とともに率いて今年二〇二二年に五十周年を迎える(創立時は「虹の会」名義)が、それ以前には三木順一(のち本名の色川大吉名義で歴史学者として活躍する)らが結成し、下村正夫・瓜生忠夫を指導者としてむかえた新演劇研究所に一九五二年の創立時から参加していた。敗戦後、下村正夫は共産党の指示に従って第一次民藝の乗っ取りを画策し、その解散(一九四九年)に導いたとして、宇野重吉や久保栄ら当時の座員から厳しい非難を浴びせられているが(『新劇・愉し哀し 宇野重吉えっせい』など)、三條氏が語る下村像は全く異なる。下村は、芸術至上主義ともいえる態度でスタニスラフスキー・システムを所員たちに教え、慕われていたという。
このこと一つをとっても、三條氏の証言が日本近現代演劇史を学ぶ者にとって貴重なものであることがわかるが、今回の聞き書きで知見を得られたのはそれだけではない。そもそも、野間宏の長編小説を職場演劇出身の鈴木政男が脚色し、下村が演出した第三回公演『真空地帯』(一九五三年二月、飛行館)が当時大変な話題を読んだにもかかわらず、また杉浦直樹、小松方正、内田良平ら錚々たる俳優たちが参加していたにもかかわらず、新演劇研究所のことはあまりよく知られていない。小松方正がその自伝に細々と書いていたぐらいで、現在もっぱら映画評論家として名を残している瓜生忠夫がどんなことを考えて当時新演劇研究所に加わり、そして去っていったか、また一九五八年二月にいったん活動を停止し、五九年四月に研究所体制をあらためて劇団新演として再出発したのはどういう事情があったからかなど、今回ようやくその概要が掴めたことは多い。
同様に、三條氏が新演劇研究所を離れたのちに小林和樹らと一九五八年に結成した芸術劇場についての証言も興味深い。すまけいも当時所属していた芸術劇場は、今ではすっかり忘れ去られた感があるが、下村正夫が八田元夫と劇団東演を発足させ、吉沢京夫が吉沢演劇塾を作るなど、新演劇研究所の人々が解散後に見せた動きの一つとして見逃せないものだ。一九六二、三年ごろから三大劇団をはじめ新劇団の盤石と思われていた体制に綻びが見え始め、やがてはアングラ演劇各劇団の結成につながる大激動の時代を迎えるわけだが、すでにこの時期に新劇のなかでも新しい展開が生まれていたことがよくわかる。
三條氏の生きてこられた戦中・戦後の時代は、新劇が現在よりずっと社会的に認知されていた時代であり、新劇界以外の文化人との交流関係も伺えて興味深かった。とりわけ音楽家・林光やその父親で俳優座の顧問医を務めた林義雄、合唱指導の石本美佐保らが三條氏の近くにいたこと、さらには劇団四季結成以前の浅利慶太が、姉の陽子とともに劇座の代々木の稽古場に現れていたことなど、時代の空気を感じさせる逸話を聞いていると、時間が経つのを忘れるほどだった。三条氏のファンとして、今回仲介の労をとってくださった片山幹生氏にも感謝の意を表したい。(日比野啓)
ご両親のこと
日比野 まずは一気に時計の針を戻しまして幼いころのことからお聞きしたいと考えております。
三條 私はもうだいぶ年ですから。ご存知でしょう、年齢は。
日比野 いえ、正確には存じ上げていないのですが、ご婦人に年齢を聞くのも、と遠慮しておりました。
三條 構いませんよ。おととい誕生日で九十六歳になりました。大正十四(一九二五)年十月九日生まれです。
日比野 それはおめでとうございます。
三條 いえ、お恥ずかしいことでございます。なぜか死なないんですよ、ちっとも。もう、昔の仲間は誰もいなくなってしまいました。崖の上で風に吹かれている感じです。こちら、劇団の代表の跡見梵です。私の付き人のようなこともしてもらっています。
跡見 芸術劇場では、三條と小林和樹と一緒に、菰岡喜一郎という本名で、制作をしながらスタニスラフスキー・システムをやっておりました。三條の弟子ということで資料集めやらなにやらをしております。
日比野 よろしくお願いいたします。では最初に、ご両親の影響についてお聞きしたいと思います。お母様は東京女子医大の大先輩でいらしたそうですね。
三條 そうです。母は医者で、父は「若人社」という、わりと斬新的な若い人たちの宗教の団体におりまして、たまたま野間清治さんの贔屓をいただくことがあり、講談社の揺籃期に総務部長をしておりました。
日比野 若人社?
三條 ええ。そこが宗教的な若者の団体だったらしいんです。それで、どこでどうなったのかはよく分かりませんが、何しろ野間清治さんにだいぶかわいがられまして。清治さんが引かれてからは『報国』という広報誌の編集長をしておりました。
日比野 芸術上はお父さまの影響が強かったということですか。
三條 そうですね。父と母は、その当時としては誠におかしな連中で、六十年間別姓のままで夫婦生活を続けておりました。それで何とも思っていない、二人とも独立精神旺盛で。ですから私は戦前までは庶子だったんですよね。それを知った時はびっくりしました、私。もらいっ子かと思った。戦後、そんなのはなくなりましたけれども。
日比野 ちなみに一人っ子でいらっしゃるんですか。
三條 妹が一人いまして、存命です。
日比野 ご長命の家系なんですね。
三條 父が九十七歳だったかな、母が九十三歳。そういうことなんですけど、なんだか死なないですねえ。
日比野 それで幼いころに『どん底』を観たということをお書きになっていました。
三條 父が当時、新協なんかの新劇団のものすごいファンでしたので。今はないですけど、当時は「インテリ」という層がございまして、この人たちと学生とがそういうものを応援していました。当時の新劇というのは、非常に官憲から憎まれ、迫害を受けていたわけですね。それに父が非常に感動しまして、今思うと、芝居を観る時にはいつも、母に対して私をダシにしていたんだと思いますけれど、一緒に連れていってもらったのが六歳の時です。新協劇団か、あるいは、違う劇団だったのかもしれませんが、築地小劇場だったと思います。壁なんかも、ちゃんとモルタルで塗ってはいなくて、ブリキのままだったように思います。それで、ワシリーサに惹かれてしまいまして。なんだかわからないんですけど、無我夢中で見ているうちに、すごくよく思えたんです。
日比野 一九三一年でしょうか。
三條 そのくらいですかね。なんていう劇団かどこだったのかはよくわかりませんけれど、それを観たこと、それで「ああいうのをやりたい」と思ったのは、はっきり残っています。母は小児科医で、私はその後、熱を出したりしましたので、父はずいぶん怒られたらしいです。「そんなものを見せるからだ」って。でも私はその時から、絶対に芝居をしたくなりまして。父は昔から熱血でおしゃれさんで、リベラルな人でしたから、その影響もあったんですね。たとえば父は、私に絶対に足を折ってきちんと座るということをさせませんでした。「足が曲がるから、絶対に座っちゃいけない」と。畳の生活だったんですが、正座をすると怒られるので、いつも、あぐらをかいていました。
日比野 ご両親は東京の方ですか。
三條 父は岡山で母は福井なんです。二人とも東京へ出て大恋愛をしまして。母は怒られて東京女子医専の卒業を一年遅らせられたんです。そのぐらい、当時としては激しい恋愛だったらしいです。それからずっと別姓で生活していました。
日比野 当時のインテリの気概を見る思いです。歌舞伎座や東京宝塚劇場にも行かれましたか。
三條 父は歌舞伎も好きでしたから、連れていかれました。宝塚にも一回連れていかれて、好きになりまして、夢中で観るようになりました。男役の方ってきれいだと思って。後で、本当の男の方と会う時に困ったことがあります(笑)。私はレビューが好きで、特に戦後になってからは自分の力で観られますから、よく観に行きました。歌舞伎も行きました。昔、四階に立見席がありまして、安いもんですから、学生時代はよくそれを目当てにして行きました。そこから花道の見える席は四つしかないんです。そこを取るためにいちばん先に行って、男の方と一緒に必死になって四階まで駆け上がりました。
日比野 歌舞伎俳優で印象に残っている方はいますか。
三條 そうですね。橘屋さんは綺麗でした。あれは何世でしたっけ。
日比野 十五世の羽左衛門ですね。
三條 あの方は大好きでした。それから播磨屋さん。
日比野 初世の吉右衛門ですね。
三條 そうです。本当にお上手で、みんなが泣いちゃうくらい。大好きでよく見に行きました。
日比野 宝塚の女優さんで覚えてらっしゃる方はいますか。
三條 戦前ですと、宇知川朝子さんがいらっしゃいました。愛国の歌か軍歌を歌っていましたね。
日比野 戦争が始まったのは大学に入られてからですか。
三條 いえ、第三高女というところに行っていた時です。これがまた大変な学校で。学校を出ましたら東大出身の方以外と結婚すると馬鹿にされるようなところでした。宮様にお会いする時にはどうすればいいかというような作法を教えていて、お芝居なんて汚い、下品なことはとんでもないという学校です。それでも英語の先生だけが芝居をさせてくれたんです。英語劇を。体操の先生に見つかると殴られるので、本当に秘密でした。この学校で、貴族的な言葉というのも勉強しました。たとえば「おむすび」は「おにぎり」と言わなくてはいけなくて、間違えると「あの方、おむすびとおっしゃったわ」といじめられるというような場所でした。
日比野 お仲間というか、一緒に演劇をやりたいという人がいたわけですよね。
三條 第三高女のころはあまりなかったですね。みなさんいいおうちの方で、英語劇ならばということでやっていましたから、親友は別にいましたけど、芝居をする仲間というような人はいませんでした。
神山 第三高女は都立になってからだと何高校ですか。
三條 都立第三高校で今は駒場高校です。当時は麻布にございまして、坂を降りていくところにありました。空襲で焼けて、駒場に移ったんです。
神山 お宅は[品川区の]御殿山でしたか。
三條 そうです。
神山 そうしますと、第三高女から女子医大に進まれて、戦時中に疎開はされましたか。
三條 女子医大が疎開しまして、山梨に二年ほどおりました。食べるものがなくて、みんなでどこかのうちのザクロを盗ったり。大変苦労しました。山梨には日本住血吸虫という寄生虫がいまして、予科の時には子供たちの検便をやってこれを見つけるということをさせられました。
日比野 女子医大では演劇はされなかったんですか。
三條 ちょっとやりました。女子医大は芝居をしても大丈夫でしたから。ただ、あんまりいい芝居ではなかったですね。何しろ勉強の方が忙しくて。
日比野 そうすると本格的に演劇活動を始められたのは就職してからですか。
三條 そうです。それに、あのころの世相はおわかりですか。こんなふうに集まって話していたらもう、検挙されてしまうんです。三人集まったら検挙です。大変でした。父は髪の毛を長くしていたことで「あいつは社会主義者だ」と告発されたことがあります。それで警察が来まして。刑事が何もいわないでいきなり戸を開けてドカドカっと入ってきて、父の書斎にあがって手紙を片っぱしから開けて点検するんです。何もかも全部、出しっぱなしで。父は幸いに講談社の『報国』をやっていたものですから、なんとか助かったんです。こういうことは周りの人が密告する、そういう時代ですから、怖かったですね。母は家で診療していましたからそこへ来て、情報交換したりする人がいました。それで父は目をつけたられたりしていたんです。「女房を働かせている」というので、町内会の人に悪口を言われてもいました。ただ父はまったく、母が「独立したい」といえば、独立することをなんとも思っていませんでした。母は経済的に独立したいという人で、人の戸籍に入るのは絶対に嫌だと。それで二人で六十年間別姓のままで、子供をつくって暮らしました。でも、父が亡くなる前に、「税金の関係があるので、頼むから」と、母を拝み奉って、戸籍に入ってもらいました。それでなんとか税金は半分になりましたけど。母は泣いていましたね。
日比野 そういう社会の不条理に対して憤る気持ちというのは、お母様もお持ちだったんですね。
三條 母は社会教育委員というのをやっていましたが、目をつけられるというようなことはなかったようです。女というのもあったんだと思います。ですから私は、二・二六の時にはまだ子供でしたけど、なんでも革命の方がいいんだ、すごいんだと思っちゃっていたんです。父から怒られました。「あの革命は違うんだ」って(笑)。NHKラジオのアナウンサーが必死な声で放送していましたね。[銃]弾の音のする方の壁にはいかないで、布団をそこに重ねて反対側にいなさいということを一所懸命言ってました。雪がしんしんと降るなかで、遠くで弾の音がしていました。
新演劇研究所時代
日比野 大学ご卒業後は済生会病院にお勤めになりました。
三條 初めは産婦人科でした。それで赤ちゃんをとりあげたり、おろしたりということをしているうちにどうしても芝居がやりたくなりまして。だけど、医者は何年かやらないと一人前にはなりませんから、病院に入って勉強しなくちゃならない。それで夜、芝居のできるところを探しましたら、たまたま、新演劇研究所が夜やってくれていました。働く人たちのために夜やってくれている、それに土方与志が講師だと書いてあったので、それがいちばんの魅力で受験しました。都立第三高女のとき、ある校長先生が、土方与志という人が悪い思想にかぶれてパリへ逃げていって、お母さんが追っていってもとうとう帰らなかった、そういう悪い人になっちゃいけませんという話をしていて。その時からずっと土方与志に憧れていたんです。ですから、その、新演劇研究所というのがどういうものかということは知りませんでした。
日比野 新演劇研究所の創立は一九五一年七月ですが、そこにお入りになったのはいつですか。
三條 新演劇研究所は下村正夫先生を中心につくられ、当時新協劇団の研究生であった杉浦直樹さんや大蔵省勤務でサークル活動として演劇をやっていらした小松方正さんたちと一緒に、私はそこの一期の研究生になりました。「スタニスラフスキーを本で読んだか」というご質問も事前にいただきましたけれど、本を読むどころか、下村さんには、一から実践させられ、十一年間、スタニスラフスキー・システムを叩き込まれました。内田良平さん、小林和樹さんも劇団員でしたね。寺島幹夫さん、吉沢京夫さんも、後からいらっしゃいました。
日比野 のちに色川大吉という本名で民衆史の領域を開拓した三木順一が、当時新協劇団演出部にいて、下村正夫や土方与志、瓜生忠夫に声をかけたと聞いています。
三條 私はその当時、三木さんとしか知りませんでした。その三木さんに私は、入った時のパントマイムを大変に買っていただきまして、ありがたかったです。でも、とてもえらい方だと聞いていまして、ほかの人たちも大変に尊敬していらしたので、遠い方でした。常に下村さんのそばにいらして。要するに、生徒を育成するのは下村さんと他の人ですが、新演の進む道とかそういうことは全部、三木さんが下村さんと相談してつくっていかれたんです。
日比野 三木順一が直接指導することはなかった?
三條 試験の時にはいらっしゃって、いろいろ先生にも進言なさっていたみたいです。ただ、とても偉い人ですから、私なんかは仰ぎ見るだけで。新演劇研究所というのは、左翼でしたら、その進む道もほとんどは三木さんがつけられたんじゃないでしょうか。私、初めは全然知らなくて後になってどういう方か知りました。三木、三木って、とても尊敬されていました。
神山 当時、新演劇研究所は代々木で活動していらしたんですね。
三條 はい。共産党のそばでいろいろと大変でした。共産党はもう合法だったと思いますが、やっぱりみんなでビラを撒いていまして、もうなんのビラだったかもわかりませんが、捕まった方もいます。みんな「どこだかの署に入った」なんて威張っていましたから。土方与志さんも何回か入っていらしたので、官憲に対する憎しみをすごくお持ちでした。ちょっと官憲に白状したというような人がいたら、その人を役から降ろせ、と言ったくらいです。ただ、私はかわいがっていただきました。幸いなことに、私の初舞台は土方与志先生の演出だったんです。何をしても「いいよ、いいよ」とおっしゃって。お顔が、東映系の俳優で東千代之介っていますね。あの方をもっと上品にしたような顔をしていらして。とても気さくな方でしたけど。山本安英さんによれば、遊びに行くたびに、先生のおうちの食器だとかでいいものが一つずつなくなっていたそうです。
日比野 それは戦前のお話ですね。戦後も切り売りされていたんですか。
三條 そうなんですって。かなりお金を出していらしたんじゃないかと思います。
日比野 土方与志の演出というのは、どんな感じだったんですか。ダメは出さない?
三條 たまには出しますよ。ダメを出すときついんですけどね。私はほとんど出されなくて、かわいがっていただきました。「どんな女優になるんだろうね」と言われて。それで最後に握手をしていただいたりして。震えました。「私、新劇と握手しているんだ」と思って。それが『扇風機』っていう、私の初舞台です。悪い課長さんがいて、それをみんなでやっつけるという話で、私は課長のおめかけさんで、あまりいい役じゃありませんでした。職場演劇のような、職場のみんなが団結して勝ったという話なんです。下村さんは怒りん坊で、すぐ叱られましたけど、土方先生は、初めてだからしょうがないと思われたんでしょうけど、とても優しかったですね。
日比野 特にスタニスラフスキーということもおっしゃってはいない?
三條 はい。そうじゃなかったですね。
日比野 『扇風機』というのはどなたがお書きになったんでしょうか。
三條 職場作家の方が書いたんです。鈴木政男さんかもしれません。
日比野 俳優座、民藝もそうですが、やはり職場演劇、自立演劇と結びついていこうという動きがあったんですね。
三條 そうですね。下村さんと鈴木さんは、大変親友でしたから、職場演劇の方へ観に行ったり、メークのお手伝いしたりはしました。
神山 八田元夫とはあまり直接の関係はないですか。
三條 八田さんは教授で来てくださいまして、授業は受けました。演出を受けたことはございません。
神山 八田さんって、写真で見るといかにもおっかなそうな、豪快な感じがしますが、実際はどんな印象でしたか。
三條 ちょっと面白くて、そんなに怖くはなかったですが、手が出るのがわりと早い方だったのかな。
神山 新演劇研究所には、瓜生忠夫さんもいらっしゃいましたね。
三條 瓜生先生は、わりとおっかなくて。下村さんとはうまくやっていらっしゃいましたけど。
神山 私どもの世代ですと瓜生さんのことは、映画でしか出てこないんですよね。最初から映画評論家だとばっかり思ってましたけど。実際に演技の指導はされましたか。
三條 ええ。私が入った時は下村さんと瓜生さんと二人で演技の指導をしていらっしゃいました。私も一つ、芝居で瓜生さんの演出を受けておりました。とても優しい方で。
日比野 瓜生忠夫が演劇から離れて、映画の世界に向かった理由とかきっかけみたいなのはご存じではないですか。
三條 私はよく知りません。ただ、下村さんと何かちょっとあったのかもしれません、演技的なことで。二人で演出をいろいろとやっていらっしゃいましたけれども、どこでどうなったのか分かりませんが、ある時から瓜生先生の姿が見えなくなっちゃった。
日比野 それは新演が解散する前からですよね。
三條 そうです。新演の解散はだいぶ後です。
日比野 宇野重吉の自伝[『新劇・愉し哀し 宇野重吉えっせい』]を読むと、下村正夫という人は党派的な人で、政治的な因業を生み出しては人と別れていくというような書かれ方もしています。もちろん宇野さんにとっては、第一次民藝を壊されたというような思いがあるわけですから、客観的ではないかもしれません。
三條 そうでしょうね。下村さんと瓜生先生と三木さんといらっしゃいましたが、生徒の信頼は下村さんに集まってしまっていました。瓜生先生は志が高くて、わりと高踏的なことをパパパッとお出しになるんです。下村さんはスタニスラフスキー・システムで、そこをどういうふうに歩けとか、具体的に指導してくださるので、研究生にとってはその方がよくわかったんです。『真空地帯』[一九五三年一月、飛行館ホール]という作品で大阪に行きまして、その後からいらっしゃらなくなりました。下村さんともそんなに仲が悪くはなかったんですが。
日比野 三條さんはそのお芝居には出演されていましたか。
三條 いえ、私はまだ研究生でした。女は出さないと下村さんに言われて。[『真空地帯』には]女の人は一人も出ませんでした。私は衣装係で、[臨時]第三陸軍病院[旧名。国立相模原病院]に行って衣装を借りました。そのころは兵隊さんの服がまだいっぱいありましたから。それを皆さんに配って着てもらいました。私はトラックが大好きで、いつも上乗りをしていました。
神山 これは鈴木政男の演出ですか。
三條 いえ、台本をお作りになったのが鈴木政男さんで、演出は下村さんです。
神山 舞台監督をやった大木靖さんは覚えていらっしゃいますか。
三條 覚えています。俳優座の大木ちゃんですね。
神山 私は国立劇場の制作室に二十年ぐらいいたんですが、その時に大木靖さんがちょうど舞台技術部長で時々話を聞きましたけど、「あのころはとにかく全部感情移入だけだったなあ」って、言っていましたよ。
三條 大木ちゃんと私は本当に仲が良くて。最初の『真空地帯』が、どういうわけでそうだったのかわからないんですが、梅田コマ劇場のこけら落としだったんですね。大木ちゃんが舞台監督でした。大木ちゃんとはしょっちゅう一緒にやりました。胃が悪かったのでお薬をあげてやってもいました。
日比野 色川さんが病気もあって、もともと現場にはタッチされてなかったのが、さらにちょっと引いた形になったことで、瓜生派と下村派が対立したという話もありますが。
三條 いや、瓜生派っていなかったと思います。みんな下村さんに傾倒していましたから。ただ、いつの間にか瓜生さんがいらっしゃらなくなっちゃったということしか分かりません。
日比野 下村さんは当時、共産党の指示を受けていたようなふしはありましたか。
三條 それもないですね。下村さん自身は芸術的な問題に行きたいと言っていました。でも、細胞が劇団にあったのは確かです。その人たちが三木さんを中心に何かやっていたのは事実です。
日比野 じゃあ、下村さんはむしろ、そういうところからは一歩引いていらしたんですね。
三條 うちがいちばん左で、ほかの劇団、たとえばぶどうの会ですとか、[俳優座・文学座・民藝の]三大劇団ですね、その人たちを守らなきゃいけないみたいなことは言っていましたけどね。最左翼だから、ということは。
日比野 なるほど、私たちが今資料から読む下村正夫像とは違う姿ですね。
三條 そうですか。どういうことなんでしょう。画策するとか、そういうことは全然、私は知りませんでした。
日比野 『真空地帯』で毎日演劇賞をもらって、新演が社会的に大きく認知されるようになったんですが、その前後で劇団内の空気は変わりましたか。
三條 そういうことはなかったですね。ただ、必死になって、ひたすらスタニスラフスキー・システムを実践していたという気がします。その当時地震研究で有名だった東大の教授・石本巳四雄(みしお)さんの奥様、石本美佐保さんが合唱指導をしてくださって、ずいぶん歌も練習いたしました。「朝鮮の歌声」というのをやりまして。それはご存知でいらっしゃいますか。ちょうど朝鮮戦争があったころで、朝鮮の人たちの詩と歌を、詩集が翻訳されていましたから、それを読んで、歌は林光さんにつけていただいて、芝居の後でやるということを何回かやりました。
芸能人診療所のころ
日比野 その林光さんのお名前が出たので、そのお父様の林義雄さんについてお話をうかがいたいと思います。
三條 林洋子って林光さんの最初の奥さんですね。その方がちょうど私と同い年ぐらいで、研究生だったんです。二人とも劇団員になりましたけど。その方の紹介で、[一九五二年ごろ?のことでしょうか]林義雄先生にお会いしました。私は初めに産婦人科をやっていたんですが、たいてい夜なんですよね、赤ちゃんが生まれるのは。それで赤ちゃんはすぐ死ぬことも多くて、どこか死と遠い科はないかなと思ったら、林洋子から「私のおしゅうとさんが耳鼻咽喉科で俳優座の方の顧問をしてる」と聞いて、紹介してもらいました。一応、医者として舞台発声を勉強するということで、紹介してもらって、耳鼻咽喉科に入れていただきました。
日比野 林洋子さんは俳優座の養成所を出られているんですね。
三條 そうです。卒業してからちょっとして試験を受けて入ってきました。
三條 林洋子とはずいぶん仲良くさせてもらいました。光さんには、後に芸術劇場をつくりました時に作曲をずいぶんしていただきました。新演でも光さんがいろいろと作曲してくださったんだと思います。
神山 林義雄先生は有楽町にも確か診療所がありましたね。
三條 ええ。有楽町に診療所を一つつくっていらっしゃいました。そこで私は教えていただいたんです。芸能人診療所でした。そこでいろいろな方と私もお会いして。
日比野 名前も芸能人診療所?
三條 そうです。当時、芸能人の保険がありましたので。芸能人の方々がいらっしゃいまして。翁家さん馬さんが患者さんでした。それから、市来崎のり子さんは先生が、林先生がずっと喉を診ていらっしゃいました。
日比野 林義雄先生と三條さんとで診療されていたんですか。
三條 私の上の先生がお二人いらっしゃいました。男の先生が。林先生が全部「これをやりなさい」と割り振ってくださったんです。私も初めはただ見ているだけでしたけど、そのうちに林先生にうんと鍛えられて。とても親切にしていただきましたし、舞台発声も教えていただきました。
神山 林先生は戦前から芸能人というか、芸人を診ていらしたんですか。
三條 そうらしいですね。俳優座さんの顧問になられて。
神山 以前読んだ林先生の本では、六代目菊五郎の声帯のことを書かれていて。
三條 ええ。私も歌舞伎座に連れていかれまして、六代目さんじゃないかな、あの方は。あとは宝塚の新珠三千代さんとか、そういう方の喉をやりました。みんな往診でしたので、私は一緒に行ったり。[七代目翁家]さん馬[のちの八代目桂文治]さんは面白い方でしてね。いろいろな挿話を教えてくださいました。恋人と一緒に外を歩いていて、当時はそれはいけないことでしたから、警察に捕まって怒られて。警察署長に「結婚する」と言ったら、「じゃあ、今しろ」と言われて、署長の媒酌で結婚したという。
日比野 本当ですか、それは。
三條 そうなんです。いつも「俺、署長の媒酌で結婚したんだよ」と言っていました。
神山 でも、林先生は具体的には「あの役者さんの声はどう」とかいう話はされなかったですか。その時代の歌舞伎だと[三世市川]壽海ね。海老蔵がすごく美声だったという。
三條 壽海はもうお亡くなりになっていましたから。私の時は勘三郎さん。そのお子さんの勘九郎さんを連れていらして。あの方はどうしようもないいたずらっ子で、靴のままで椅子の上にあがるので、みんなで追いかけ回して、大騒ぎでしたよ。しょうがない子でした(笑)。
神山 林先生のご自宅は原宿でしたか。
三條 そうです。原宿のいちばん向こうのなんという道路でしたか、東郷神社のある角に広いうちがあって、バラをいっぱいつくっていらっしゃいました。
神山 林光さんの本を読みますと、原宿のお宅で日曜研究会というのをやって、小松方正なんかが来ていたとあるんですが、それは覚えていらっしゃいますか。
三條 ええ。声の出し方や何かを勉強していたらしいです。私は林先生が、学会に出す映画をお作りになるというので、その時に行ったりしました。バラを見によく伺ってもいましたね。今は全然ですが、当時はあのあたりはお屋敷街でした。
スタニスラフスキーと三人の指導者
日比野 一九五五年六月に新演劇研究所公演第七回として鈴木政夫の『サークルものがたり』(飛行館ホール)をやって、一九五六年六月に俳優座劇場で『どん底』があります。これが最初にワシリーサ役ができたという時ですか。
三條 いえ、それは俳優座劇場での『どん底』ですけれども、『どん底』はその前からずっとやっていました。その四年、五年ぐらい前からかな。それから、九州から東北まで、日本中を持って周りました。
日比野 じゃあ、自伝[「女優と医師との二足のワラジ」]にお書きになっていたワシリーサ役ができたというのは?
三條 ですから新演劇研究所でやると聞いた最初の時から先生に売り込んでいまして。でも、先生は意地悪して「だめだ」と言ってたんです。でも配役発表の当日につけていただいて。本当に大変でした。
日比野 下村さんに演技をやり過ぎる、と怒られたとお書きになっていましたね。基本的には、それぞれの俳優がスタニスラフスキー・システムにしたがってやったうえで、下村さんが細かく注文をつけるということですか。
三條 ある程度自由にやらせておいて、いろいろなことをおっしゃっていました。
日比野 たとえばサブテキストみたいなことは自分で考えて?
三條 最初にみんなで分析というのをやりまして、そこでサブテキストのことは話しましたけれど、あんまり細かいことはなかったです。
日比野 瓜生さん、三木さんはどうでしたか。
三條 瓜生さんはほとんど何もおっしゃらない方でした。三木さんは育成の方には来なかったです。ただしょっちゅう下村さんと話をしていて。みんな三木さんを尊敬していましたから、三木さんの言う通りに、ということはありました。演技のことは、下村さんには言っていらしたみたいですけど、直接の指導もされなかったし、演出もあまりしていなかったです。
神山 メーキャップについてはどうですか。赤毛ものなんかは、今よりも重要視されていたでしょう。どなたが指導をされたんですか。
三條 それは先輩の俳優さんたちの指導でした。それで、あんまりおかしいと下村さんが笑って、そうおっしゃってました。私は今でもやっぱり、メークはしないとダメですね。
神山 あのころはメーキャップと、「表情術」という言葉は使われましたか。
三條 舞台の場合は、体で出さなきゃいけないところで、あまり表情を出さない方がいいので、顔はわりと変わらないですね。
日比野 当時、スタニスラフスキーを学ぶ場合は、例えば千田是也の翻訳、『近代俳優術』とか。
三條 千田さんの『俳優術』はずいぶんテキストにいたしました。
日比野 そうですか。じゃあ、それを例えば下村さんはどういうふうに教えられるんですか。
三條 いや、その書いてあるところを一つずつ自分で読んで、実践するわけです。それでそれを実践するやり方は下村さんが指導していらっしゃいました。
日比野 当時やっぱり千田是也の言うスタニスラフスキーと下村正夫の言うスタニスラフスキーは違っていた?
三條 それはよく分かりませんですけど。
日比野 特に千田是也の悪口を俳優たちの前で言うとかそういうことはなく。
三條 そんなことはまったくなかったです。ただ私は『どん底』の時にワシリーサで、すらっと立とうと思って、かっこいいのが好きで、立とうと思って。観にいらしていた千田さんに怒られたことはあります。あんな立ち方は貴族の立ち方だと怒られて。だけどあとは特に千田さんとどうこうということはなかったですね。
戦後新劇の興隆
神山 『真空地帯』は最初、飛行館でなさって、大阪に持っていったわけですか。飛行館とかと梅田コマ劇場は大きさがずいぶん違いますでしょう。そういう違和感はなかったですか。
三條 それはなかったですけどね。
神山 そうですか。飛行館は私でも知らないんですけれども、建物はあるのは知っていますけれども、飛行館というのはわりと小さい感じでしょう。そうでもないんですか。
三條 飛行館も結構舞台は大きかったですね。舞台の端から端まで雑巾掛けをしましたので、かなり広かったように私には思えました。
日比野 新演は、俳優座劇場を比較的多く使っていますけど、それはやはり千田是也さんとの関係ですか。
三條 それはよくわかりません。ただ、俳優座劇場は、当時としては一番の劇場、ということがありましたから、それで使ったんじゃないかと思います。
神山 [一九八〇年九月改築前の]俳優座劇場は傾斜がすごかったですよね。役者さんとしてはやりやすい劇場でしたか。
三條 一階は大変にフラットで、そこからだと役者がよく見えるんですよ。一階は素晴らしかったんです。二階は全然でしたけど。
神山 三階なんて見下ろすと怖かったです。二階に喫茶室があったでしょう。
三條 途中でなくなってしまって。あれはよかったですね。本当に、昔の新劇のために建てられた劇場でした。
神山 新劇ですと、戦後すぐから一九五〇年代前半くらいまでは三越劇場もよく使われていましたね。新演劇研究所とはちょっと合わない感じがしますけども。
三條 ぶどうの会はよく使っていらっしゃいましたね。ぶどうの会とは、とても仲良くして、しょっちゅう交歓会したり、野球の試合なんかもやっていました。
日比野 ほかの劇団とのお付き合いについてもお聞きしたいんですが、民藝とはお付き合いはありましたか。
三條 いえ、ありませんでした。
日比野 千田是也さんは観に来たり……。
三條 ええ。一応ご覧になってくださったらしいんですけど、そんなに親しくはしてなかったですね。
日比野 文学座は。
三條 文学座はいちばんの右でしたし、「芸術至上主義」ということを言っていましたから、あんまり合わなかったと思います。
日比野 まだ新協は残っていましたよね。
三條 どうでしたか……よく覚えていません。
神山 新演劇研究所が始まったころ、代々木のけいこ場と同じビルに、[舞台芸術学院を一期生として卒業したばかりの]いずみたくのいた劇座[のち東京喜劇座と合流]とかほかの小さい劇団もあったというようなことを聞きました。
跡見 [一九五三年に劇団四季を結成する]浅利慶太さんがいらっしゃいました。
三條 そうです。浅利さんのお姉さん[浅利陽子]が主役で『乞食(かんじん)の歌』[劇座・一九五一年八月]というのをやっていらっしゃいました。
神山 『乞食の歌』は当時劇座の一員で、後に前進座に文芸部員として入座する津上忠の作品ですが、前進座はもう完全に吉祥寺にいたので、あまり関係ないですか。真山美保さんの新制作座というのもありましたが、ああいうものは当時のイメージとしては「新劇」ですか。
三條 前進座はまったく関係なかったです。新劇は歌舞伎を排除したものということですし、左翼的な感じがありました。前進座はわりと左翼的でしたが、芝居の形態はまったく違ったと思います。
神山 当時は前進座も翻訳劇をやっていましたが、やはり別物という感じでしたか。
三條 そうですね。少しは似た感じが芸術的にはあまり関係はなかったです。個人的な交流はあったのかもしれませんが。
日比野 三條さんご自身は、前進座や新制作座のお芝居を観にいくことはありましたか。
三條 あんまりなかったですね。新劇合同公演とかそういうのは見ましたけれども。観に行く暇がなかったですね。
神山 それはそうですよね。お医者さんでもいらっしゃるし。
日比野 ちょっと毛色が違うところとして、文化座とか、俳優座のスタジオ劇団の新人会や仲間はどうでしょう。
三條 そういう新しいところはほとんど見られなかったですね。劇団同士の交流もあまりなくて、当時はほかの劇団へは行っちゃいけないみたいな雰囲気もありましたし。今はみんな、自由にあちこち行っていますけれど。
神山 青俳とかその辺は。
三條 青俳は、下村さんが演出していらしたんですよ。それで青俳だけは観に行きました。
神山 青俳は、木村功もいましたね。
三條 ええ。でもお話ししたのは岡田英次さんとでした。
日比野 一九五七年に、有馬稲子さんの主演のテレビドラマ『私は告発します』に出演された話も書いておられます。当時の新聞に、有馬は新演劇研究所の研究生になったというようなことが書いてありますが……。
三條 そんなことはなかったですね。有馬さんは全然、私どもはその番組でご一緒しただけで。当時は、ずいぶん、新劇の人がテレビに出たんです。使える俳優さんがあんまりいませんでしたから。
神山 麹町の日本テレビですか。もちろん、生放送の時代ですよね。
三條 大変でしたね。ビデオがございませんから、スタジオからスタジオへ走って歩いて。それでテレビはもうこりごりになっちゃいました。
神山 そのころはまだ三田の済生会にいらっしゃった?
三條 そうですね。三田の済生会中央病院で産婦人科をやっていました。
‐
芸術劇場時代
日比野 新演劇研究所は一九五八年に分裂、解散します。
三條 あれはどういうことだったんですかね。下村さんはいろいろあって、亡くなられる前に、新演は要するになぜ解散かというと、主立った人たち、杉浦直樹とか内田良平とかそういう人たちがみんな映画の方へ、その当時、杉浦は私と二人で話した時に、自分はお金がなくて髪の毛が抜けちゃっていたから、お金というものも大事だから、僕はもうこんな貧乏なことをやっているのはちょっと考えるという話をされたことがあります。その後すぐ映画の方へいらっしゃったんですね。
日比野 杉浦直樹さん、小松方正さんとは、その後、お付き合いはありましたか。
三條 時々、昔の仲間たちが集まると、杉浦さんとは仲が良かったですから、いろいろなことを言ってくださいました。小松方正さんは、本当にいい方で面白かったです。方正という名前だから品ぶた行方正かと思うぐらい立派な方で、新演劇研究所では最初の奥様とご一緒でした。なんというんでしょう、夢中になっちゃうと何するかわからないようなところがあって。「僕は役の皮の中に入るんだ」というようなことをおっしゃっていました。新聞記者時代には、本当に人を竹刀で殴っちゃって、下村さんに怒られたりしていましたけど、とても面白い、いい方でしたよ。
日比野 そのあと、三條さんは小林和樹さん、岩崎綾子さんと芸術劇場をつくられました。その時にはどういうことをやりたいとお考えになっていましたか。
三條 なんということもなかったですが、ただ新しい芝居をやりたいなということでした。後に舞台芸術学院の校長になった、兼八善兼さんも最初は一緒でした。
日比野 最初の本公演が『田中千禾夫・澄江一幕集』[一九六〇年三月・俳優座劇場・演出:小林和樹]でした。
三條 田中澄江さんの作の『水のほとりの女』というのをやりました。軽井沢にいらしていた田中さんのおうちへ伺って、澄江さんにお許しを得たのを覚えています。
日比野 それ以前にはお二人との交流はなかったですか。
三條 あんまりなかったです。
日比野 そうするとなぜ、この作品を選ばれたんでしょうか。
三條 何かの雑誌に載っていた『水のほとりの女』に大変感動したんです[『群像』第五巻第十一号(一九五〇年十一月)]。それでお許しをいただいて。千禾夫さんも観に来てくださいまして、大変にほめたお葉書をいただいて。それで澄江さんもまた観にいらしたりということがありました。
日比野 この時は三本立てで、田中千禾夫の「笛」[演出:三條三輪・小林和樹]、「骨を抱いて」[演出:兼八善兼]を合わせて上演されました。千禾夫、澄江夫妻のご記憶はございますか。
三條 澄江さんは記憶にあります。ちょっと足がお悪かったけれど、よくいらしてくださって。
日比野 跡見さんも澄江さんのご記憶ありますか。
跡見 何回も上演していますからね。千禾夫さんの作品とはずいぶん違った雰囲気の方で。
日比野 作品の繊細さと、ご本人のたたずまいが、ずいぶん違いますよね。それとも、やはり、わりとセンシティブな、繊細な方なんでしょうか。
三條 澄江さんは気さくな方ですよ。
神山 田中千禾夫は戦前の芝居はよく分かるんですけど、戦後のは、僕なんかはよく分からないんです。当時の新劇青年としては共感性があったんですか。
三條 そうですね。ただ千禾夫さんのは、よく分からなくて。難しかったです。
跡見 澄江さんの作品の方が、親近感がありました。
神山 澄江さんは本当にいいですよね。そのあとは三條さんが台本をお書きになったものだと、小林和樹さんがお出になった『インサイド・オブ・アメリカ(アメリカ演劇一幕集)』[一九六三年七月・俳優座劇場]。
三條 芸術劇場の台本はほとんど私が書きましたね。
跡見 その当時は、全部手紙を開封されたというアメリカの事情があって。
三條 一応上演したいという手紙は書いて翻訳していただいて、お送りしたんですけどね。そうしたら、あの当時主演をした俳優さんの写真が一枚来たきりで。結局やっていいことになっちゃって。
日比野 そういう感じのメークにしろとか、そういうことですかね。
三條 なんですかね。よくわかりませんでしたが、それだけで何も言われませんでした。そのころはあまり著作権なんかもうるさくなかったようです。
日比野 そうですか。この『インサイド・オブ・アメリカ』も、[アリス・ガーステンバーグの]『ポット・ボイラー』なんかは、当時のラインナップとしては非常に斬新でしたね。これは翻訳があったんですか。
三條 ありました[『現代世界戯曲選集』第七巻(白水社、一九五四年)]。
日比野 この前拝見した『地獄のオルフェウス』(二〇二一年四月、SPACE雑遊)の公演パンフレットには、中央大学の長田光展さんが寄稿されていました。長田さんとは長いお付き合いですか。
三條 長いです。最初にテネシー・ウィリアムズをやりました時に、長田先生にいろいろとお話を伺って、それ以来ずっと交流がございます。
日比野 『インサイド・オブ・アメリカ』の時にも……
三條 その時は違いました。長田先生とは、芸術劇場から分かれて、今の劇団をつくりましてからです。
日比野 『おれたちは天使じゃない』(一九六二年十二月、俳優座劇場)もおやりになっています。それは映画があってのことですか。
三條 映画というより台本がよかったので。二カ所でやりました。
日比野 その後は円地文子原作の『南の肌』(一九六三年十一月、俳優座劇場)です。
三條 『南の肌』は私が脚色いたしまして、円地文子先生のお付きの方に、あんまり原作とそっくりだから、「こんなんでいいんですか」と言われたんです。
日比野 日本のものと、それから翻訳物とどちらがやりやすいということはありますか。あんまり違いはないですか。
三條 どうでしょうね、作品によって違いますから。
日比野 モリエールもたくさん上演されています。
三條 はい、モリエールは好きで、ずいぶんやりました。
日比野 モリエールはいい翻訳ってあまりないですね。
三條 鈴木力衛先生がやっていらっしゃいましたよね。モリエールは「喜劇」というより「難しい」というふうに言われてたんです。翻訳通りにやりますと、フランス人にしか分からない洒落や、宮廷のことなんかがあるんですね。日本人がそれを全部やりますと、わからなくて、つまらないんですよ。私は、モリエールが大好きでしたから、モリエール師匠に弟子入りしたつもりで「モリエールさんすみません」と、自分で日本人向けに、フランス人でなきゃわからないところはカットしたりして、新しい台本をつくりました。それで「もり・りゅう」というのが私の書く時の名前です。
日比野 そういうことなんですね。フランス演劇の研究者の方と一緒に何かをやったりしたことはないですか。
三條 一時そういう方に観ていただいたことはありますが、その方のアドバイスにしたがってつくったといったことはないです。まさに日本的モリエールですね。
日比野 芸術劇場は、もちろんこれは皆さんプロとしてやっていくという感じでおやりになっていたんですよね。当時、いわゆる研究生は募集されていましたか。
三條 俳優の学校みたいなことをやっていました。
日比野 なるほど。それがアマチュアが多く出演したという一九七二年三月の『3・10東京大空襲』(品川公会堂)につながるわけですか。
三條 それはまた別ですね。あの時は、それをしようということで、いろいろな資料をあさって回りました。私どもも、いろいろなところから流れて、ちょうど永代橋の向こうへけいこ場をつくったものですから。じゃあ下町の話をやろうということになりまして。
跡見 四谷にあったけいこ場がビル取り壊しということで、永代橋に移ったのがその時で。それで、線香の匂いに惹きつけられて、それで初めて、あのあたりが東京大空襲の中心になっていたと知ったんです。
日比野 その時に、ご近所で、「新劇をやっています」と言ったら、「新国劇はいいね」と言われたそうですね。
三條 お菓子を買いに行ったら、「あんた、髪の毛長いから切りなよ」と言われて。それで「何をやっているんだ」と聞くから「芝居をやっているんだ」「新劇です」と答えたら、「あぁ新国劇は大好きよ」と言われたんです。「髪を長くしているのは『瞼の母』をやるからでしょう」と言って。あの時はだいぶお菓子をおまけしていただきました。
日比野 その時のおばさんは「辰巳柳太郎のファンだ」と言ったと書かれていましたが、三條さんは当時、新国劇をご覧になることはありましたか。
三條 ええ。新国劇や新派はよく観ました。自分たちがやっていることとは全然、演劇の質は違いますけれど、そういうところからいろいろと勉強することもございますから。新宿の三越の向こう側に新宿劇場というのがありまして。そこで新派の方がやっていらしたのをよく観ましたね。
神山 甲州街道沿いの劇場ですか。
三條 そうです。あそこで『明治一代女』なんかをやっていまして。そんなのを拝見しました。
日比野 これは誤記かもしれないんですけれども、一九七二年三月に『東京大空襲』を芸術劇場がやった時、新聞にはアマチュア劇団と書かれているんですね。
跡見 それで食べてなかったから、そういうふうにいわれたかもしれないですね。
三條 今でもそうですが、それで食べてないとアマチュアだといわれたんです。マスコミの方にも出ていませんでしたし。
日比野じゃあ、あえてアマチュアをたくさん入れようというふうに考えていたわけではないんですね。
三條 働く人たちとやろうとは思っていましたけれど。どうしても夜のお稽古ということで始めましたし。
跡見 地べたにドシンと根を下ろしてという、その気持ちはありましたね。
日比野 新演劇研究所は、一九五九年の四月に劇団新演として再出発しますが、この時にまた戻るということは考えられませんでしたか。
三條 ええ、その時はもう次の新しい劇団をつくっておりましたので。
神山 芸術劇場の結成は一九五八年ですが、ちょうどモスクワ芸術座が来日公演していましたね。あれはご覧になりましたか。
三條 一応見ましたが、難しかったですね。ただ素晴らしい演技がありました。乳母の演技でしたけど、その方も古老の俳優で、後ろを向いて黙って出ていくだけなんですが、素晴らしかったですね。そういうものには感動いたしました。
日比野 芸術劇場でも、スタニスラフスキー・システムはやっていたわけですね。
三條 ええ。もう洗脳されていましたから、当然スタシス的な演技指導になっていましたね。
神山 モスクワ芸術座も、スタニスラフスキー・システムを通して見るという感じでしたか。お手本として見るという。
三條 それはまた別でした。ただ、ロシア語が分からないから、見るだけではつまらなかったですね。
神山 当時はイヤホンガイドもありませんから。今だったら同時通訳もありますけど。
三條 そうなんです。ですから、いろいろ勉強することはございましたけれども、あまりわかりませんでした。私は、パッ、パッ、パとしたのが好きで、フランスのモリエールの劇なんかとは違って普通だな、と思いました。
神山 そう言ってくださって安心します。当時の記録を見ますと、みなさん、衝撃的だったとか感動したとかものすごい表現ばかりでしょう。本当かなといつも思います。
日比野 一九六三年十一月には、ドクター劇団さんし座の『三人姉妹』(俳優座劇場)に出演されたという記録があります。これは、お遊び的なものだったんでしょうか。
三條 そうでもないですね。本格的にやっていらっしゃいました。俳優座から全部衣装や何かを借りて、劇場も俳優座でした。あれは慶應の医学部の方たちがやっていらして、そこの方が演出もされていました。私は友達がそこにいたものですから、誘われて出させられたんです。
日比野 この劇団はどのくらいの期間活動したんですか。
三條 さぁ。一回かな、出ただけなのでわかりません。
神山 一九六三年ごろというと、俳優座で安部公房が上演されていましたが、そういうものにはあまり関心がなかったですか。
三條 私はだめなんです。その当時のアングラというのは分からないんですよ。
神山 文学座で安堂信也さんがベケットなんかやっていた、ああいうのもあんまりピンとこない?
三條 ベケットなんかも私は正直言って分からないんです。本当に観念劇というのが分からない人なので。
神山 その方が普通かもしれません。「すぐ分かりました」なんて言う方がちょっと変ですから。僕はあのころ高校生ですけど、なんでこんなに人気があるのかよく分からなかったですね、正直言って。
芸術劇場脱退・劇団修羅一族結成
日比野 それで芸術劇場を一九七二年に脱退されましたが、これはどういう事情だったんでしょうか。
三條 芸術劇場が地方回りをやって生活するようになったんです。旅公演ばかりをして、東京公演はあんまりなくなりまして。私は医師として勤めておりましたから、旅公演ができなくて大変に困りました。そういうこともあって、だんだん齟齬をきたして、小林さんとあんまりうまくいかなくなってしまいました。
日比野 芸術劇場は、この後もしばらく続きますね。
三條 やっていらしたらしいですね。ただ路線が変わっちゃったみたいです。小林さんもわりと左翼的なでしたから、『3・10東京大空襲』だったり、戦争ものはずいぶんやったんですけれど、私どもがいなくなってからはそれも全然違ってきまして。
跡見 三條と小林との感覚の違いはあったかもしれませんね。いちばん大きかったのは、『町人貴族』という作品で、三條が手がけていたのを、ある時小林さんが中断させて、俺が代わりにやると。それで劇団に親戚の人間が何人もいましたから、そういうあれで、数で圧倒されて、いろいろとありまして。たとえば僕が着ていた衣裳も、白っぽい服をきて貴族的にしていたんだけど、ある時から黒い色に変わったんです。要するにそういう感覚の違いがありました。でも演出が変わったら仕方がないですから。
神山 新演劇研究所が分かれた後、下村さんは東演、吉沢京夫さんは吉沢演劇塾をつくったりしましたでしょう。そういったものは、もう気にならなかったですか。
三條 そうでしたね。それはまったくもう違ってしまっておりました。
日比野 それで虹の会を結成されて、その後は修羅一族という名前で活動されます。
跡見 「虹の会」というのは、女の子でも入りやすいようにということでつくった俳優教室です。それで「修羅一族」は劇団名です。新劇俳優協会の誰かに、「やるんだったらね、かわいい女の子いっぱいを集めなさい、そうすると男の子も寄ってくる」からと言われたんです。それで演劇企画虹の会というのをつくり、その次に多少人数が集まったので、出資者も含めて「劇団修羅一族」をつくりました。
日比野 働いていらっしゃる人も、虹の会には入ってこられましたか。
跡見 ええ。まずは経済的な基盤を確保しないと、芸術的なことはできないということはありましたね。芸術劇場の時にも、やっぱりみんなご飯を食べたいということで、旅公演を始めて、だんだんそれが多くなって。それは悪いことじゃないんだけど、なんか目標というか芸術的な設定がだんだんと希薄になっていったということはありました。
日比野 すまけいさんとのことも、エッセイでお書きになっています。『ポット・ボイラー』(『インサイド・オブ・アメリカ』)の後、すまさんと演劇論を語り合う素敵な夜があったという。それ以後は没交渉でしたか。
三條 ええ。すまさんとはその時夜通し議論して、お互いの道を行くしかない、一緒にはできないということになりましたから、気持ちよく別れましたね。非常にうまい方で、『ポット・ボイラー』やゴーゴリの『検察官』を翻案した『監察官』[劇団芸術劇場、一九六二年九月]でも共演して、とても仲がよかったんですけどね。
日比野 すまさんはその後、井上ひさしの作品とかに出ていて、ある意味、新劇に戻ってこられたようなところもあったと思いますが、そういった作品はご覧になられましたか
三條 チャンスがなくて、全然拝見してないんです。
神山 僕が初めてすまけいを観たのは一九六八年か一九六九年でした。「すまけいとその仲間たち」の『贋作・動物園物語』[初演は新舞台名義で、一九六六年十月、新宿ピットイン]。芸術劇場で同様の趣向の翻案ものをやっていたということですね。
跡見 そうです。小林和樹の演出で。
神山 すまけいと太田豊治の二人でやっていました。
三條 太田豊治もいたんです。
日比野 じゃあ二人とも芸術劇場だったんですね。
三條 ええ。ただ、豊治君はすまさんと一緒に、劇団を出たんですね。女の子たちもすまさんについていっちゃって。私どもは私どもでその時は小林和樹とやっていましたから、それで劇団が割れてしまったんです。
日比野 そうするとやはり芸術劇場というのは、日本の現代演劇史上すごく重要な劇団として、記憶されるべきものですね。
*
*
*
日比野 新演劇研究所は一九五八年に分裂、解散します。
三條 あれはどういうことだったんですかね。下村さんはいろいろあって、亡くなられる前に、新演は要するになぜ解散かというと、主立った人たち、杉浦直樹とか内田良平とかそういう人たちがみんな映画の方へ、その当時、杉浦は私と二人で話した時に、自分はお金がなくて髪の毛が抜けちゃっていたから、お金というものも大事だから、僕はもうこんな貧乏なことをやっているのはちょっと考えるという話をされたことがあります。その後すぐ映画の方へいらっしゃったんですね。
日比野 杉浦直樹さん、小松方正さんとは、その後、お付き合いはありましたか。
三條 時々、昔の仲間たちが集まると、杉浦さんとは仲が良かったですから、いろいろなことを言ってくださいました。小松方正さんは、本当にいい方で面白かったです。方正という名前だから品ぶた行方正かと思うぐらい立派な方で、新演劇研究所では最初の奥様とご一緒でした。なんというんでしょう、夢中になっちゃうと何するかわからないようなところがあって。「僕は役の皮の中に入るんだ」というようなことをおっしゃっていました。新聞記者時代には、本当に人を竹刀で殴っちゃって、下村さんに怒られたりしていましたけど、とても面白い、いい方でしたよ。
日比野 そのあと、三條さんは小林和樹さん、岩崎綾子さんと芸術劇場をつくられました。その時にはどういうことをやりたいとお考えになっていましたか。
三條 なんということもなかったですが、ただ新しい芝居をやりたいなということでした。後に舞台芸術学院の校長になった、兼八善兼さんも最初は一緒でした。
日比野 最初の本公演が『田中千禾夫・澄江一幕集』[一九六〇年三月・俳優座劇場・演出:小林和樹]でした。
三條 田中澄江さんの作の『水のほとりの女』というのをやりました。軽井沢にいらしていた田中さんのおうちへ伺って、澄江さんにお許しを得たのを覚えています。
日比野 それ以前にはお二人との交流はなかったですか。
三條 あんまりなかったです。
日比野 そうするとなぜ、この作品を選ばれたんでしょうか。
三條 何かの雑誌に載っていた『水のほとりの女』に大変感動したんです[『群像』第五巻第十一号(一九五〇年十一月)]。それでお許しをいただいて。千禾夫さんも観に来てくださいまして、大変にほめたお葉書をいただいて。それで澄江さんもまた観にいらしたりということがありました。
日比野 この時は三本立てで、田中千禾夫の「笛」[演出:三條三輪・小林和樹]、「骨を抱いて」[演出:兼八善兼]を合わせて上演されました。千禾夫、澄江夫妻のご記憶はございますか。
三條 澄江さんは記憶にあります。ちょっと足がお悪かったけれど、よくいらしてくださって。
日比野 跡見さんも澄江さんのご記憶ありますか。
跡見 何回も上演していますからね。千禾夫さんの作品とはずいぶん違った雰囲気の方で。
日比野 作品の繊細さと、ご本人のたたずまいが、ずいぶん違いますよね。それとも、やはり、わりとセンシティブな、繊細な方なんでしょうか。
三條 澄江さんは気さくな方ですよ。
神山 田中千禾夫は戦前の芝居はよく分かるんですけど、戦後のは、僕なんかはよく分からないんです。当時の新劇青年としては共感性があったんですか。
三條 そうですね。ただ千禾夫さんのは、よく分からなくて。難しかったです。
跡見 澄江さんの作品の方が、親近感がありました。
神山 澄江さんは本当にいいですよね。そのあとは三條さんが台本をお書きになったものだと、小林和樹さんがお出になった『インサイド・オブ・アメリカ(アメリカ演劇一幕集)』[一九六三年七月・俳優座劇場]。
三條 芸術劇場の台本はほとんど私が書きましたね。
跡見 その当時は、全部手紙を開封されたというアメリカの事情があって。
三條 一応上演したいという手紙は書いて翻訳していただいて、お送りしたんですけどね。そうしたら、あの当時主演をした俳優さんの写真が一枚来たきりで。結局やっていいことになっちゃって。
日比野 そういう感じのメークにしろとか、そういうことですかね。
三條 なんですかね。よくわかりませんでしたが、それだけで何も言われませんでした。そのころはあまり著作権なんかもうるさくなかったようです。
日比野 そうですか。この『インサイド・オブ・アメリカ』も、[アリス・ガーステンバーグの]『ポット・ボイラー』なんかは、当時のラインナップとしては非常に斬新でしたね。これは翻訳があったんですか。
三條 ありました[『現代世界戯曲選集』第七巻(白水社、一九五四年)]。
日比野 この前拝見した『地獄のオルフェウス』(二〇二一年四月、SPACE雑遊)の公演パンフレットには、中央大学の長田光展さんが寄稿されていました。長田さんとは長いお付き合いですか。
三條 長いです。最初にテネシー・ウィリアムズをやりました時に、長田先生にいろいろとお話を伺って、それ以来ずっと交流がございます。
日比野 『インサイド・オブ・アメリカ』の時にも……
三條 その時は違いました。長田先生とは、芸術劇場から分かれて、今の劇団をつくりましてからです。
日比野 『おれたちは天使じゃない』(一九六二年十二月、俳優座劇場)もおやりになっています。それは映画があってのことですか。
三條 映画というより台本がよかったので。二カ所でやりました。
日比野 その後は円地文子原作の『南の肌』(一九六三年十一月、俳優座劇場)です。
三條 『南の肌』は私が脚色いたしまして、円地文子先生のお付きの方に、あんまり原作とそっくりだから、「こんなんでいいんですか」と言われたんです。
日比野 日本のものと、それから翻訳物とどちらがやりやすいということはありますか。あんまり違いはないですか。
三條 どうでしょうね、作品によって違いますから。
日比野 モリエールもたくさん上演されています。
三條 はい、モリエールは好きで、ずいぶんやりました。
日比野 モリエールはいい翻訳ってあまりないですね。
三條 鈴木力衛先生がやっていらっしゃいましたよね。モリエールは「喜劇」というより「難しい」というふうに言われてたんです。翻訳通りにやりますと、フランス人にしか分からない洒落や、宮廷のことなんかがあるんですね。日本人がそれを全部やりますと、わからなくて、つまらないんですよ。私は、モリエールが大好きでしたから、モリエール師匠に弟子入りしたつもりで「モリエールさんすみません」と、自分で日本人向けに、フランス人でなきゃわからないところはカットしたりして、新しい台本をつくりました。それで「もり・りゅう」というのが私の書く時の名前です。
日比野 そういうことなんですね。フランス演劇の研究者の方と一緒に何かをやったりしたことはないですか。
三條 一時そういう方に観ていただいたことはありますが、その方のアドバイスにしたがってつくったといったことはないです。まさに日本的モリエールですね。
日比野 芸術劇場は、もちろんこれは皆さんプロとしてやっていくという感じでおやりになっていたんですよね。当時、いわゆる研究生は募集されていましたか。
三條 俳優の学校みたいなことをやっていました。
日比野 なるほど。それがアマチュアが多く出演したという一九七二年三月の『3・10東京大空襲』(品川公会堂)につながるわけですか。
三條 それはまた別ですね。あの時は、それをしようということで、いろいろな資料をあさって回りました。私どもも、いろいろなところから流れて、ちょうど永代橋の向こうへけいこ場をつくったものですから。じゃあ下町の話をやろうということになりまして。
跡見 四谷にあったけいこ場がビル取り壊しということで、永代橋に移ったのがその時で。それで、線香の匂いに惹きつけられて、それで初めて、あのあたりが東京大空襲の中心になっていたと知ったんです。
日比野 その時に、ご近所で、「新劇をやっています」と言ったら、「新国劇はいいね」と言われたそうですね。
三條 お菓子を買いに行ったら、「あんた、髪の毛長いから切りなよ」と言われて。それで「何をやっているんだ」と聞くから「芝居をやっているんだ」「新劇です」と答えたら、「あぁ新国劇は大好きよ」と言われたんです。「髪を長くしているのは『瞼の母』をやるからでしょう」と言って。あの時はだいぶお菓子をおまけしていただきました。
日比野 その時のおばさんは「辰巳柳太郎のファンだ」と言ったと書かれていましたが、三條さんは当時、新国劇をご覧になることはありましたか。
三條 ええ。新国劇や新派はよく観ました。自分たちがやっていることとは全然、演劇の質は違いますけれど、そういうところからいろいろと勉強することもございますから。新宿の三越の向こう側に新宿劇場というのがありまして。そこで新派の方がやっていらしたのをよく観ましたね。
神山 甲州街道沿いの劇場ですか。
三條 そうです。あそこで『明治一代女』なんかをやっていまして。そんなのを拝見しました。
日比野 これは誤記かもしれないんですけれども、一九七二年三月に『東京大空襲』を芸術劇場がやった時、新聞にはアマチュア劇団と書かれているんですね。
跡見 それで食べてなかったから、そういうふうにいわれたかもしれないですね。
三條 今でもそうですが、それで食べてないとアマチュアだといわれたんです。マスコミの方にも出ていませんでしたし。
日比野じゃあ、あえてアマチュアをたくさん入れようというふうに考えていたわけではないんですね。
三條 働く人たちとやろうとは思っていましたけれど。どうしても夜のお稽古ということで始めましたし。
跡見 地べたにドシンと根を下ろしてという、その気持ちはありましたね。
日比野 新演劇研究所は、一九五九年の四月に劇団新演として再出発しますが、この時にまた戻るということは考えられませんでしたか。
三條 ええ、その時はもう次の新しい劇団をつくっておりましたので。
神山 芸術劇場の結成は一九五八年ですが、ちょうどモスクワ芸術座が来日公演していましたね。あれはご覧になりましたか。
三條 一応見ましたが、難しかったですね。ただ素晴らしい演技がありました。乳母の演技でしたけど、その方も古老の俳優で、後ろを向いて黙って出ていくだけなんですが、素晴らしかったですね。そういうものには感動いたしました。
日比野 芸術劇場でも、スタニスラフスキー・システムはやっていたわけですね。
三條 ええ。もう洗脳されていましたから、当然スタシス的な演技指導になっていましたね。
神山 モスクワ芸術座も、スタニスラフスキー・システムを通して見るという感じでしたか。お手本として見るという。
三條 それはまた別でした。ただ、ロシア語が分からないから、見るだけではつまらなかったですね。
神山 当時はイヤホンガイドもありませんから。今だったら同時通訳もありますけど。
三條 そうなんです。ですから、いろいろ勉強することはございましたけれども、あまりわかりませんでした。私は、パッ、パッ、パとしたのが好きで、フランスのモリエールの劇なんかとは違って普通だな、と思いました。
神山 そう言ってくださって安心します。当時の記録を見ますと、みなさん、衝撃的だったとか感動したとかものすごい表現ばかりでしょう。本当かなといつも思います。
日比野 一九六三年十一月には、ドクター劇団さんし座の『三人姉妹』(俳優座劇場)に出演されたという記録があります。これは、お遊び的なものだったんでしょうか。
三條 そうでもないですね。本格的にやっていらっしゃいました。俳優座から全部衣装や何かを借りて、劇場も俳優座でした。あれは慶應の医学部の方たちがやっていらして、そこの方が演出もされていました。私は友達がそこにいたものですから、誘われて出させられたんです。
日比野 この劇団はどのくらいの期間活動したんですか。
三條 さぁ。一回かな、出ただけなのでわかりません。
神山 一九六三年ごろというと、俳優座で安部公房が上演されていましたが、そういうものにはあまり関心がなかったですか。
三條 私はだめなんです。その当時のアングラというのは分からないんですよ。
神山 文学座で安堂信也さんがベケットなんかやっていた、ああいうのもあんまりピンとこない?
三條 ベケットなんかも私は正直言って分からないんです。本当に観念劇というのが分からない人なので。
神山 その方が普通かもしれません。「すぐ分かりました」なんて言う方がちょっと変ですから。僕はあのころ高校生ですけど、なんでこんなに人気があるのかよく分からなかったですね、正直言って。
芸術劇場脱退・劇団修羅一族結成
日比野 それで芸術劇場を一九七二年に脱退されましたが、これはどういう事情だったんでしょうか。
三條 芸術劇場が地方回りをやって生活するようになったんです。旅公演ばかりをして、東京公演はあんまりなくなりまして。私は医師として勤めておりましたから、旅公演ができなくて大変に困りました。そういうこともあって、だんだん齟齬をきたして、小林さんとあんまりうまくいかなくなってしまいました。
日比野 芸術劇場は、この後もしばらく続きますね。
三條 やっていらしたらしいですね。ただ路線が変わっちゃったみたいです。小林さんもわりと左翼的なでしたから、『3・10東京大空襲』だったり、戦争ものはずいぶんやったんですけれど、私どもがいなくなってからはそれも全然違ってきまして。
跡見 三條と小林との感覚の違いはあったかもしれませんね。いちばん大きかったのは、『町人貴族』という作品で、三條が手がけていたのを、ある時小林さんが中断させて、俺が代わりにやると。それで劇団に親戚の人間が何人もいましたから、そういうあれで、数で圧倒されて、いろいろとありまして。たとえば僕が着ていた衣裳も、白っぽい服をきて貴族的にしていたんだけど、ある時から黒い色に変わったんです。要するにそういう感覚の違いがありました。でも演出が変わったら仕方がないですから。
神山 新演劇研究所が分かれた後、下村さんは東演、吉沢京夫さんは吉沢演劇塾をつくったりしましたでしょう。そういったものは、もう気にならなかったですか。
三條 そうでしたね。それはまったくもう違ってしまっておりました。
日比野 それで虹の会を結成されて、その後は修羅一族という名前で活動されます。
跡見 「虹の会」というのは、女の子でも入りやすいようにということでつくった俳優教室です。それで「修羅一族」は劇団名です。新劇俳優協会の誰かに、「やるんだったらね、かわいい女の子いっぱいを集めなさい、そうすると男の子も寄ってくる」からと言われたんです。それで演劇企画虹の会というのをつくり、その次に多少人数が集まったので、出資者も含めて「劇団修羅一族」をつくりました。
日比野 働いていらっしゃる人も、虹の会には入ってこられましたか。
跡見 ええ。まずは経済的な基盤を確保しないと、芸術的なことはできないということはありましたね。芸術劇場の時にも、やっぱりみんなご飯を食べたいということで、旅公演を始めて、だんだんそれが多くなって。それは悪いことじゃないんだけど、なんか目標というか芸術的な設定がだんだんと希薄になっていったということはありました。
日比野 すまけいさんとのことも、エッセイでお書きになっています。『ポット・ボイラー』(『インサイド・オブ・アメリカ』)の後、すまさんと演劇論を語り合う素敵な夜があったという。それ以後は没交渉でしたか。
三條 ええ。すまさんとはその時夜通し議論して、お互いの道を行くしかない、一緒にはできないということになりましたから、気持ちよく別れましたね。非常にうまい方で、『ポット・ボイラー』やゴーゴリの『検察官』を翻案した『監察官』[劇団芸術劇場、一九六二年九月]でも共演して、とても仲がよかったんですけどね。
日比野 すまさんはその後、井上ひさしの作品とかに出ていて、ある意味、新劇に戻ってこられたようなところもあったと思いますが、そういった作品はご覧になられましたか
三條 チャンスがなくて、全然拝見してないんです。
神山 僕が初めてすまけいを観たのは一九六八年か一九六九年でした。「すまけいとその仲間たち」の『贋作・動物園物語』[初演は新舞台名義で、一九六六年十月、新宿ピットイン]。芸術劇場で同様の趣向の翻案ものをやっていたということですね。
跡見 そうです。小林和樹の演出で。
神山 すまけいと太田豊治の二人でやっていました。
三條 太田豊治もいたんです。
日比野 じゃあ二人とも芸術劇場だったんですね。
三條 ええ。ただ、豊治君はすまさんと一緒に、劇団を出たんですね。女の子たちもすまさんについていっちゃって。私どもは私どもでその時は小林和樹とやっていましたから、それで劇団が割れてしまったんです。
日比野 そうするとやはり芸術劇場というのは、日本の現代演劇史上すごく重要な劇団として、記憶されるべきものですね。
*
*
*
東京保険医新聞
或るひがみ談 三條三輪
久しぶりに会った元患者さん、松〇和〇さん七十七歳との立話。「喉が痛いなら病院に。」「でもちょっとした風邪ぐらいじゃお医者さんにかかれないわよ、何しろ保険二割になっちゃったもんね、もうじき保険証もなくなるんですってね、このごろのお上はやること早いねえ、何でも文句言われないうちにさっさと決めっちまう。税金払わないで年金取る年寄りなんか早く死ねって事なんでしょうね。年金ったってあたしなんか月八万ですけどね。殊にこないだテレビで言ってた道路交通なんとか……ほら、電動なんとかってやつですよ、免許なしで十六以上だって、十七、十八って云やあ一番向こう見ずで元気な年でしょう、そんなのが車道ダメだって歩道をシュウシュウ音なしで走ってたんじゃヨタヨタ歩きの年寄りなんか片っ端、殺されちゃう、そのまま逃げればそれっきり、もっとも年寄り狙って消せって狙いかもね。卵産まない鳥は潰せってねフフフ。」
久しぶりに会った元患者さん、松〇和〇さん七十七歳との立話。「喉が痛いなら病院に。」「でもちょっとした風邪ぐらいじゃお医者さんにかかれないわよ、何しろ保険二割になっちゃったもんね、もうじき保険証もなくなるんですってね、このごろのお上はやること早いねえ、何でも文句言われないうちにさっさと決めっちまう。税金払わないで年金取る年寄りなんか早く死ねって事なんでしょうね。年金ったってあたしなんか月八万ですけどね。殊にこないだテレビで言ってた道路交通なんとか……ほら、電動なんとかってやつですよ、免許なしで十六以上だって、十七、十八って云やあ一番向こう見ずで元気な年でしょう、そんなのが車道ダメだって歩道をシュウシュウ音なしで走ってたんじゃヨタヨタ歩きの年寄りなんか片っ端、殺されちゃう、そのまま逃げればそれっきり、もっとも年寄り狙って消せって狙いかもね。卵産まない鳥は潰せってねフフフ。」
三條三輪戯曲集
三條三輪戯曲集①
夢と遊びのエスプリで 時代を鋭く見つめる 三條三輪 待望の戯曲集!
「万の宮精神病院始末記」
「アララビアンナイト」
「動話劇 青白い鳥」
三條三輪戯曲集②
眠らない街 新宿を舞台にした代表作
夢なき時代の闇に 愛の修羅 三條三輪待望の第二戯曲集!
「牡丹燈幻想」
「聖都市壊滅幻想」 自然破壊、環境問題
自伝的エッセイ
「女優と医師の二足のワラジ」
三條三輪戯曲集②聖都市壊滅幻想 あとがきより
人間の極限状態を求めるあまり、戦争や政治の崩壊などを多くとり入れたためか、とかく社会派などと取られがち。一つそのレッテルをはがして昔から大好きだったラヴロマンスを━━と書いたのが「牡丹燈幻想」でした。勿論日本での定番、大円朝師の「牡丹燈篭」に対抗する勇気などはじめからありません。只私なりに、原本の中国伝奇小説「剪燈新話」の「牡丹燈記」に還って、楽しい大陸の人々や、絢爛の古代中国を夢見ながら書きました。ミュージカルにする気は全然無かったのに、クライマックスのセリフが気がつくと歌になっているというフンイキで、たのしく筆をすすめられたように記憶しています。幸い、俳優さんにも恵まれ、お客様にも御好評をいただいて、私自身も好きな一編になりました。
「聖都市壊滅幻想」は、学生時代から今の稽古場まで、お世話になって来た新宿をモチーフにした「新宿三部作」の第三部としてのものです。第一部「假題東京都四谷階段」(東海道四谷怪談の現代的翻案、上昇志向サラリーマンの破滅)、第二部「歌舞伎町幻想」(バブル地上げの大ボス、したたかなクラブママ、フィリピン娘の悲劇など歓楽の街にうごめく人々━━)と、四谷お岩稲荷から歌舞伎町を通り、大ガードをくぐって西口に出たわけです。
当時「知事の大理石風呂」と物議をかもした豪華新都庁舎の出来立てで、取材にと上った展望台、当初の臨海副都心計画の大企業ビルが林立するイメージを浮かべながら東京湾をのぞんでいたら、突然そのビルが沈んで行く姿がありありと見えたのがこの芝居の想のはじめでした。そこで私としては、二十一世紀の後半に時代を設定して未来への不安をこめたつもりでしたが、いくら芝居でもちょっと荒唐無稽すぎると内心赤面していたのでした。それが、主役の大企業が使う当時最先端ハイテクの「ケイタイ」が、今や小ギャルのポケット小物。埋立地の液状化、ダイオキシン汚染、遺伝子の組み換え、内臓移植等々が、二十一世紀を待たずにアッという間に現実化して常識になってしまう━━人間て、日本人て何なのだろうと空恐ろしい世紀末です。
一九九九年初冬
三條三輪戯曲集③
今や老いた下隅女優が次々と見る夢は――
決して演じることのできなかった名作の 主役の舞台――
狂気と真実の狭間できらめく生と死、 女優の業、女の業を、鋭く描く!
三條三輪最新戯曲集 「女優」その1(窓には白い櫻が映えて)
「女優」その2(窓には青い月がのぞいて)
「女優」その3(窓の外は雨)
フィガロの結婚より 「桃花村祝婚歌」
「黒雪姫と七人の大人(おおびと)たち」(自動劇)
「戯曲集③あとがき」より
(本当にありがとうございます。) 二度あることは三度、と申しますが、又又、カモミール社社長の中川さんのおはからいで、戯曲集のⅢを出すことになりました。座つきのお芝居書きとして、どうにかしてお客さまによろこんでもらえれば、あの役者、この役者を生かせれば、とヒイヒイとつづってまいりましたばかり、只もうおこがましく、でも内心嬉しく、でも恥かしく―― 「女優」は今までの劇団上演用とは一寸違う経緯でして、一九九九年、テアトロ誌企画の「ファンタスティック劇場」の中の一人として、同年九月から三ヶ月連載されたものです。条件としては、少ない登場人物で、一人の女優が演ずる三話のオムニバス、ということで、迷っていましたが、中川さんの、「売れない女優が見る夢なんかどうですか」というヒントで、どうも私のことみたいじゃあないか、と冷汗をぬぐいながら、女優の業みたいなものが書けるかも、とはじめました。 一話は女優の哀れを、二話は毒を、三話は昇華をと――勿論その時点では、どこかの美しい女優さんが演じてくれると信じて――。ところがたまたま、図々しくも自分で演ずる羽目になってしまい、昇華なんて到底ムリ、執念の固まりみたいな私です、と、三話だけ、一部改訂させていただきました。 「桃花村祝婚歌」と「黒雪姫」の二本は、それぞれ春とクリスマスのパーティー用にとにぎやかにのん気に書き下ろしたものです。「桃花村」は大好きな「フィガロの結婚」を拝借して中国に移し、大好きな「西遊記」を合併させて(勿論史実や考証は思案のほか)、日本人の夢の中国でたのしく遊んじゃいましょうというノリで、うちでは最高の上演回数を重ねて来ました。 「黒雪姫」は、これまた大好きな映画「ポケット一ぱいの幸福」から――(世界中の人々が、例えばジャッキー・チェンなどもこの作品を下じきにして映画を作っています。)丁度、山口組(マウンテンマウス)と一和会(ワンピース)の抗争が世を騒がせた頃で、一生けんめいソフトをあみだにかぶってアロンを演じた若き日の跡見梵が、「可愛いわァ」と小母様族に大モテで、真っ赤っかになって握手されていたのもたのしい思い出です。 終わりに又又又、尽きせぬ御礼を――。私は理論オンチで、明確なコンストラクションを立てて書き出すのは苦手、ある一言のセリフから想がひろがるという有様で、人物達が勝手にしゃべりはじめ、自分でも結末があやしくなりそうなひとなのですが、そういうことを大きく受け止めながら、最高の示唆とはげましで必らず到達点に導いてくれるそのままボサツ・フゲンの中川さん、そして心細い私をさりげなく暖かく支えて下さる編集部の浅井さん、野路さん、津野さん、又、毎回戯曲の不備を光で埋めて、時にグサリと一言刺して下さる照明家の鈴木さん、永年凄いアシスタントに徹し、主演しながら舞台を支えてくれる千手観音と阿修羅の申し子跡見君、足りない戯曲を黙って演技で補なってくれる森奈クン、石井サン、たち仲間のみーんな、仕様もない姉貴を物心ともに一生支えてしまいそうな超不運な畏妹伽耶クン、そしてそしてそして、わざわざ劇場にいらして、暖かくもきびしくも観、守って下さるお客様方――皆さまにありがとうございますの想いは尽きるものではございません。
三條三輪戯曲集④
一人の舞台俳優(跡見梵)の 脳腫瘍闘病の軌跡 ①
序章(プロローグ)
今年、二〇〇九年の、十二月公演が、劇友やお客様のすすめで、二十年前に書いて演出した「化石童話」に決まった。 話は、ある商社が、水源涵養地帯の上、鳥獣保護区でもある森林を買収、宅地に造成して売り出すことを計画、特別許可を取るため、闇のフィクサーを通じて金と女で知事を籠絡する。が一人の老地主が買収に応じようとしない。彼は特攻隊生き残りの隊長で、その土地の丘の上に立つ桜の古木は、六十年前死地に送り出した隊員達が名を刻んだ、彼にとっては守らなければならない大切な部下の墓標だった。そして──というもので、当時或る地方都市であった実話からの着想と、又当時出版された特攻隊員の手記、死を強制された若者達の叫びにワァワァと飛ばした涙がドッキングして、カッカと怒りながらペンを進めた記憶がある。といっても私のことだから、シリアスなものになり得なくて、メロドラマンガチックになってしまった様だが──。 とにかく古いもので、今に通じるか、と心配したのだが、流行語や風俗を二、三、修正しただけで、そのまま現在にはまってしまった。二十年たっても、この国の本質は変わっていないのか、と改めて感心した。今度の政変でこの体質が少しでも改善されればと思うのだが──。 思うと云えばもう一つ。この芝居は私達の劇団にとって、主役を演じていた跡見梵が舞台上で倒れるという因縁の芝居なのだ。今、元気に再び主役の稽古をしていう彼を演出していると、あの悪夢の日がタイムスリップして網膜に写し出される。 公演の初日、一九八九年十一月十日、別に関係ナイのだが、ベルリンの壁の崩壊した日だった。二幕に入った時、楽屋で衣裳替えしていた私の所に数人の劇団員がかけこんできた。「川島(主役の役名)が変です!」とんで行ってのぞくと、彼のセリフが違う、ドイツ語らしいものを喋っている。と思ったらセリフが出なくなった。体は固まっている。そしてとうとうクライマックスの別れの宴の場で倒れたのだった。
三條三輪戯曲集はテアトロ、カモミール社の書籍です。お問い合わせはカモミール社℡03-3294-7791 戯曲集①②は虹企画に問い合わせください。℡03-3366-1043
夢と遊びのエスプリで 時代を鋭く見つめる 三條三輪 待望の戯曲集!
「万の宮精神病院始末記」
「アララビアンナイト」
「動話劇 青白い鳥」
三條三輪戯曲集②
眠らない街 新宿を舞台にした代表作
夢なき時代の闇に 愛の修羅 三條三輪待望の第二戯曲集!
「牡丹燈幻想」
「聖都市壊滅幻想」 自然破壊、環境問題
自伝的エッセイ
「女優と医師の二足のワラジ」
三條三輪戯曲集②聖都市壊滅幻想 あとがきより
人間の極限状態を求めるあまり、戦争や政治の崩壊などを多くとり入れたためか、とかく社会派などと取られがち。一つそのレッテルをはがして昔から大好きだったラヴロマンスを━━と書いたのが「牡丹燈幻想」でした。勿論日本での定番、大円朝師の「牡丹燈篭」に対抗する勇気などはじめからありません。只私なりに、原本の中国伝奇小説「剪燈新話」の「牡丹燈記」に還って、楽しい大陸の人々や、絢爛の古代中国を夢見ながら書きました。ミュージカルにする気は全然無かったのに、クライマックスのセリフが気がつくと歌になっているというフンイキで、たのしく筆をすすめられたように記憶しています。幸い、俳優さんにも恵まれ、お客様にも御好評をいただいて、私自身も好きな一編になりました。
「聖都市壊滅幻想」は、学生時代から今の稽古場まで、お世話になって来た新宿をモチーフにした「新宿三部作」の第三部としてのものです。第一部「假題東京都四谷階段」(東海道四谷怪談の現代的翻案、上昇志向サラリーマンの破滅)、第二部「歌舞伎町幻想」(バブル地上げの大ボス、したたかなクラブママ、フィリピン娘の悲劇など歓楽の街にうごめく人々━━)と、四谷お岩稲荷から歌舞伎町を通り、大ガードをくぐって西口に出たわけです。
当時「知事の大理石風呂」と物議をかもした豪華新都庁舎の出来立てで、取材にと上った展望台、当初の臨海副都心計画の大企業ビルが林立するイメージを浮かべながら東京湾をのぞんでいたら、突然そのビルが沈んで行く姿がありありと見えたのがこの芝居の想のはじめでした。そこで私としては、二十一世紀の後半に時代を設定して未来への不安をこめたつもりでしたが、いくら芝居でもちょっと荒唐無稽すぎると内心赤面していたのでした。それが、主役の大企業が使う当時最先端ハイテクの「ケイタイ」が、今や小ギャルのポケット小物。埋立地の液状化、ダイオキシン汚染、遺伝子の組み換え、内臓移植等々が、二十一世紀を待たずにアッという間に現実化して常識になってしまう━━人間て、日本人て何なのだろうと空恐ろしい世紀末です。
一九九九年初冬
三條三輪戯曲集③
今や老いた下隅女優が次々と見る夢は――
決して演じることのできなかった名作の 主役の舞台――
狂気と真実の狭間できらめく生と死、 女優の業、女の業を、鋭く描く!
三條三輪最新戯曲集 「女優」その1(窓には白い櫻が映えて)
「女優」その2(窓には青い月がのぞいて)
「女優」その3(窓の外は雨)
フィガロの結婚より 「桃花村祝婚歌」
「黒雪姫と七人の大人(おおびと)たち」(自動劇)
「戯曲集③あとがき」より
(本当にありがとうございます。) 二度あることは三度、と申しますが、又又、カモミール社社長の中川さんのおはからいで、戯曲集のⅢを出すことになりました。座つきのお芝居書きとして、どうにかしてお客さまによろこんでもらえれば、あの役者、この役者を生かせれば、とヒイヒイとつづってまいりましたばかり、只もうおこがましく、でも内心嬉しく、でも恥かしく―― 「女優」は今までの劇団上演用とは一寸違う経緯でして、一九九九年、テアトロ誌企画の「ファンタスティック劇場」の中の一人として、同年九月から三ヶ月連載されたものです。条件としては、少ない登場人物で、一人の女優が演ずる三話のオムニバス、ということで、迷っていましたが、中川さんの、「売れない女優が見る夢なんかどうですか」というヒントで、どうも私のことみたいじゃあないか、と冷汗をぬぐいながら、女優の業みたいなものが書けるかも、とはじめました。 一話は女優の哀れを、二話は毒を、三話は昇華をと――勿論その時点では、どこかの美しい女優さんが演じてくれると信じて――。ところがたまたま、図々しくも自分で演ずる羽目になってしまい、昇華なんて到底ムリ、執念の固まりみたいな私です、と、三話だけ、一部改訂させていただきました。 「桃花村祝婚歌」と「黒雪姫」の二本は、それぞれ春とクリスマスのパーティー用にとにぎやかにのん気に書き下ろしたものです。「桃花村」は大好きな「フィガロの結婚」を拝借して中国に移し、大好きな「西遊記」を合併させて(勿論史実や考証は思案のほか)、日本人の夢の中国でたのしく遊んじゃいましょうというノリで、うちでは最高の上演回数を重ねて来ました。 「黒雪姫」は、これまた大好きな映画「ポケット一ぱいの幸福」から――(世界中の人々が、例えばジャッキー・チェンなどもこの作品を下じきにして映画を作っています。)丁度、山口組(マウンテンマウス)と一和会(ワンピース)の抗争が世を騒がせた頃で、一生けんめいソフトをあみだにかぶってアロンを演じた若き日の跡見梵が、「可愛いわァ」と小母様族に大モテで、真っ赤っかになって握手されていたのもたのしい思い出です。 終わりに又又又、尽きせぬ御礼を――。私は理論オンチで、明確なコンストラクションを立てて書き出すのは苦手、ある一言のセリフから想がひろがるという有様で、人物達が勝手にしゃべりはじめ、自分でも結末があやしくなりそうなひとなのですが、そういうことを大きく受け止めながら、最高の示唆とはげましで必らず到達点に導いてくれるそのままボサツ・フゲンの中川さん、そして心細い私をさりげなく暖かく支えて下さる編集部の浅井さん、野路さん、津野さん、又、毎回戯曲の不備を光で埋めて、時にグサリと一言刺して下さる照明家の鈴木さん、永年凄いアシスタントに徹し、主演しながら舞台を支えてくれる千手観音と阿修羅の申し子跡見君、足りない戯曲を黙って演技で補なってくれる森奈クン、石井サン、たち仲間のみーんな、仕様もない姉貴を物心ともに一生支えてしまいそうな超不運な畏妹伽耶クン、そしてそしてそして、わざわざ劇場にいらして、暖かくもきびしくも観、守って下さるお客様方――皆さまにありがとうございますの想いは尽きるものではございません。
三條三輪戯曲集④
一人の舞台俳優(跡見梵)の 脳腫瘍闘病の軌跡 ①
序章(プロローグ)
今年、二〇〇九年の、十二月公演が、劇友やお客様のすすめで、二十年前に書いて演出した「化石童話」に決まった。 話は、ある商社が、水源涵養地帯の上、鳥獣保護区でもある森林を買収、宅地に造成して売り出すことを計画、特別許可を取るため、闇のフィクサーを通じて金と女で知事を籠絡する。が一人の老地主が買収に応じようとしない。彼は特攻隊生き残りの隊長で、その土地の丘の上に立つ桜の古木は、六十年前死地に送り出した隊員達が名を刻んだ、彼にとっては守らなければならない大切な部下の墓標だった。そして──というもので、当時或る地方都市であった実話からの着想と、又当時出版された特攻隊員の手記、死を強制された若者達の叫びにワァワァと飛ばした涙がドッキングして、カッカと怒りながらペンを進めた記憶がある。といっても私のことだから、シリアスなものになり得なくて、メロドラマンガチックになってしまった様だが──。 とにかく古いもので、今に通じるか、と心配したのだが、流行語や風俗を二、三、修正しただけで、そのまま現在にはまってしまった。二十年たっても、この国の本質は変わっていないのか、と改めて感心した。今度の政変でこの体質が少しでも改善されればと思うのだが──。 思うと云えばもう一つ。この芝居は私達の劇団にとって、主役を演じていた跡見梵が舞台上で倒れるという因縁の芝居なのだ。今、元気に再び主役の稽古をしていう彼を演出していると、あの悪夢の日がタイムスリップして網膜に写し出される。 公演の初日、一九八九年十一月十日、別に関係ナイのだが、ベルリンの壁の崩壊した日だった。二幕に入った時、楽屋で衣裳替えしていた私の所に数人の劇団員がかけこんできた。「川島(主役の役名)が変です!」とんで行ってのぞくと、彼のセリフが違う、ドイツ語らしいものを喋っている。と思ったらセリフが出なくなった。体は固まっている。そしてとうとうクライマックスの別れの宴の場で倒れたのだった。
三條三輪戯曲集はテアトロ、カモミール社の書籍です。お問い合わせはカモミール社℡03-3294-7791 戯曲集①②は虹企画に問い合わせください。℡03-3366-1043